日本におけるキリスト教の伝道 5

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5.日本の文化(風習・特徴)を知ると言う事

 前回までは、聖書が"伝道"についてどう語っているかを、甚だ簡単にではあるが見てきた。本章からは、具体的に福音が伝えられる対象のこの"日本"と言う国について考えてみたい。
 序論の第一章でも述べたが、この日本において、明治維新期以降、今日まで(※伝統的なキリスト教会から異端ないし異端的と目される教派も含めて)240以上もの教派ミッションや団体が日本での宣教を行なっている。1世紀半に渡り、数多くの日本人自身による伝道及び宣教師達が、天文学的な費用を費やして伝道活動を行なってきたのに関わらず、日本のクリスチャン人口は全部ひっくるめて未だ1%に満たない。しかし一方で、同じ宣教団体が行なっている伝道活動によって、韓国やアフリカを始め多くの国々では、伝道活動は大きな成果を上げて着実に実を結んでいる。
 とすると、日本においてもこれだけバラエティに飛んだ教派や人々が、才能と資金を投じて様々な方法によって伝道活動を行なっているのに、この日本においてのみ、どこも等しく実を結んでいないと言う事実は(伝道活動をしている主体側にまったく問題はないとは言い切れないが)、この日本と言う国の文化的土壌に何か問題がありそうである。"福音の内容"と衝突する何かしらの"要因"が、この国の文化的背景に存在しているのかもしれない。
 これらの関係を、簡略的な計算式(仮)に表記すると次のようになる。この私案の簡単な仮定の式で、話しを進めさせていただく
(※)
(※ただし前章までに述べたように、伝道には神の意志と力が働き、人間の業では成し遂げられないと私は確信しているが、以下の文章や式は、有限な人間であるクリスチャンが果たすべき最大限の努力義務ととらえていただきたい)。

(A × B) × C = Z

・A=伝えるべきキリスト教の真理
・B=キリスト教伝える主体の意識や方法論等
・C=キリスト教信仰を受け入れるないし保持できるその国の文化の土壌
・Z=その国ののキリスト教人口


 Aについては、(よほどの異端や異端的な教理で無い限り)ローマ・カトリック教会でもプロテスタント教会でも、伝えるべき根本的な福音宣教の内容が大きく異なる事はない。これを仮に、100%の真理としよう。
 Bについては、教会や個人を抱合した"伝える主体"であるが、どの程度の熱心さで、どのような正しい方法論で伝道を行なっているかと言う割合である。色んな教派が、様々な方法論を駆使して伝道活動を展開してるが、その中には「正しいもの」も「誤っているもの」も含まれているであろう。この方法論の正しさの数値を、仮に50%としておこう。
 日本におけるZの値は、既に得られている。1%(もしくはそれ以下)である。Aの値を100%として、Bの値を仮に"日本の教会はあまり伝道していない"もしくは"伝道の方法論が今一つ"と言う低い評価値の50%とすると、Zが1%であるから、必然的にCの値は2%である。

100%×50%×2%=1%

である。Bの値を、仮に"日本人は伝道をよくがんばっている"と言う高評価値の75%にしてみよう。

100%×75%×1.333%=1%

この仮の式に正当性が認められるなら、日本人がキリスト教を受け入れられる、もしくはその信仰を維持できる許容量(文化的土壌)は、いずれにしても僅か数%しかないと言うことになる。
 お隣の国"韓国"を見ると、Zの値は(30%~40%とも言われるが)仮に30%とすると、A=100%、B=50%ならば、Cの値は60%、B=75%ならば、Cの値は40%。こうしてみると、"韓国文化のキリスト教に対する許容量"は平均5割前後と言う高い値であると言える。つまり、同じ伝道努力であれば、日本よりも韓国の方が確実に信徒数が増加すると言う事になる。

 Zの値を上げるには、いくつか方法がある。Aの内容を変質させ、日本の土壌に合うよう改質し、Cの値をアップさせる事である。Aの内容をCに合うように変質させた結果、Cの値を20%に向上させたとしよう。すると、

100%(※ただし変質した真理)×50%×20%=10%

これで、クリスチャン人口は見かけ上10%となる。しかし、Aのキリスト教の真理自体が既に捻じ曲がって変質しているので、それは既に本来のキリスト教では無くなっている。伝道でしばしば"キリスト教信仰の土着化"と言う言葉が聞かれるが、もし真理を捻じ曲げての土着化なのであれば、それはすでにキリスト教ではない"別な何か"でしかない。ここに日本のキリスト教信仰のジレンマがある。
 過去、日本に流入した仏教や儒教等の各種宗教や哲学、政治学や経済学と言った学問に至るまで、日本の実状に合うように、(言い方は悪いが)"換骨奪胎"されて改質させられていった。キリスト教も、第二次大戦中に国家の実状に合うように改変させられていった現実がある。結局、そのようなキリスト教の日和見主義的適応が、戦後のキリスト教発展の阻害になった観は否めない。
 つまり私たちは、Aの内容を変質させる事は避けて100%を維持する必要がある。その上で、Zの値を上げるには、Bの値を上げるべく努力する必要がある。
 Bを様々な方法論を研究してかつ伝道に対してより熱心になり、100%に近づけること。仮にCの値が2%程度だったとしても、Zの値を1.5~2%に押し上げる事ができる。

 Zの値を押し上げるもう一つの方法は、Cの値を上げる事、つまり日本の土壌(つまり"文化や風土"等)を変革する事と言う方法である。これは並大抵の事業ではないし、難しいだろう。長い歴史を通じて形成されてきたこの国の風土は、長い時間をかけなければ量を伴った質的な変化は望み得ない。しかし、この国の文化や風習を理解し、日本と言う国に住む人々の考え方の特徴を知り、方法論(※B)においてよりその心情や思考方法に接近する方法を取る事ができる。これが重要であろうと思う。
 伝道事業において、Aの内容と値は、その本質において変化させる事はできない(※それを変化させるとそれはキリスト教ではなくなる)。Cの変化も、短期間では望めない。Zの値も、長らく1%である。Zの値を底上げするには、
Cに関してよく研究し、Bの方法論にフィードバックするのが最善な方法であると思えるのである。つまり、闇雲に新しい方法を試すのではなく、対象を徹底的に研究し良く理解し、それに相応しい方法を適用するのである。

 この考え方が正しいかどうかは今は軽々しく判断はできないが、日本と言う国の文化もしくはこの国独特の特徴、またそれを形作ってきた歴史と言うものを探る事は有益だと思う。
 そのような訳で、本章からは、私たちの住むこの日本と言う国とそこに住む人々について考えていく。



 さて、では"日本の文化(もしくは特徴や風習)"と言う時、我々が共通認識できるような"独特な文化や特徴、風習"と言うものは存在するであろうか?これは、一見簡単そうで、一筋縄ではいかない問題である。私たちは、この国に生まれそして生活しているのであるから、この国の文化や特徴と言う物を、当たり前に理解しているように思ってしまう。日々、色んな風習や行事を通し、日本の文化を確かに"体験"している。しかし、日本人一人一人が、本当に日本の文化や特質の本質を理解しているかと言う点において、甚だ疑問である。なぜそのような風習が存在するのか、なぜ日本人はそのように振る舞うのか等々、客観的に科学的に見つめなおす事は稀である。問題の渦中にいる間は、全体像を見渡す事はなかなか難しいものであるのと同様、日本に暮らす我々は、客観的に日本を見る事が難しい。時に主観的になり、時に極度に日本を美化したり、逆に卑下したりしてしまう事がある。ソクラテスではないが「無知の知」を悟り、まず「知らない」と言う点を理解する事が必要である。
 自分の国を知る時に、文化や風習の違う外国の人々の研究が、時には有用であったりする。外国人が、日本の特徴的な部分を言う時にどんな表現があるであろう。「富士山、寿司、天ぷら、芸者…?」(笑)…これは、我々がアメリカを表現する時に、ステレオタイプ的に「自由の女神、ステーキ、カウボーイ…」と言うようなものである。
 もう少し真面目に考えてみよう。外国にも知られる"侘び寂び"…確かにこれも日本の文化の一面を言い表しているが、全てではない。他にも、たくさん日本を表現する言葉は存在するだろう。では、もっと多角的に全体的に、日本の文化や特徴を表現している"資料"はないであろうか?

 外国に日本の文化を知らしめる大きな功績を果たした書物に、あの有名な新渡戸稲造の「武士道」と言う書物がある。新渡戸稲造は、札幌農学校のクラークに導かれて入信したクリスチャンであり、五千円札の肖像にもなった農業経済学者・教育者である。東大教授、東京女子大学長、国際連盟事務次長と活躍し、国際的日本人として世界平和と日本開明のために尽力、貢献した人である。新渡戸博士が"英文"で書いた「武士道」は、日本道徳の価値を広く世界に知らせ、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、自らこの本を読んだのみならず友人たちにこの本を配ったと言う。
 新渡戸博士は、洋の東西を問わず様々な書物を読み広い見識を持っていた。この「武士道」が日本の国際的地位向上に果たした役割は、どのような最新兵器よりも大きかった。日本人である私にとって、この本の内容に大いに共感できる事も少なからずある。にも関わらず、私は、この「武士道」に書かれている事柄が、イコール"日本の文化の基準"、すなわち"一般的な日本の倫理・道徳の標準"であると断言できない。それは何故か?
 私が問題にしているのは、"武士道に通じる概念が生まれた時期がいつか"とか、その言葉自体の誕生が"日本の歴史において比較的最近の事ではないのか"と言ったような枝葉末節の事柄ではない。「武士道」には、高い日本の武士の倫理レベルが描かれているが、それは"果たしてどれだけの量の武士の実際の生活を規定していたか"と言う問題なのである。どれだけ"大義名分"が立派であっても、それを実際に行なっていた人が僅かだったのであれば、それは"倫理や道徳の標準であった"とはとうてい言えないだろう。
 現代の日本を見てみよう。この数年の間ざっと見ただけでも、農林水産省、外務省、国土交通省、文部科学省、防衛省、厚生省…その他数多くの官僚組織や官僚個人の不正が発覚している。
 例えば、社会保険庁が「保健・福祉施設事業を展開して国民のみなさんの健康な暮らしと豊かな老後をサポートし…」と声高に"崇高な使命"を宣言しても、国民のほとんどがその言葉を空々しいと思っているし信頼などしていない。つまり国民の多くが、その"崇高な使命"を社保庁の絵空事として認識しているのである。
 新渡戸博士の「武士道」では、崇高な言動を示した武士の姿が描かれている。現代にも立派な官僚がいるのと同様に、確かにそう言う立派な武士がいたのは事実であろう。しかし一方で、現代の官僚組織にも見られるように、組織の中で不正を働く武士や、粗暴でヤクザな武士もいたかもしれない。これらは、当然だが"統計資料"がある訳では無いので、その比率は私の知るところではない。現代の官僚社会であっても、その比率の統計など不可能であるのと同じである。高い倫理観を持つ"武士道"が、倫理的・道徳的な面で多少なりとも一般庶民にも影響を与えた事は推察できるが、しかし「武士道」に書かれている"高い倫理観"を、(過去から現代まで含めて)日本人全体の倫理観・道徳観とするには、やはり少し無理があるように思えるのである。

 私は、より客観的に日本の特徴(もしくは文化ないし風習等)を述べている資料としては、ルース・ベネディクトが書き表した「菊と刀」の方が優れていると個人的に判断する。理由は、第一に、ルースが科学的な学問的方法論を駆使し、極力"客観性"を保とうとしている事。第二に、現代の日本人の私が読んでも、抵抗感なくその記述が"そう大きく誤っていない"と認識できる事(←まあ、これも私の主観と言ってしまえばそれまでだけど…難しい部分だよね)。
 実は、ルースは一度も日本に来ていない(!)。しかし、第二次大戦中に「対戦相手国の日本人を知れ」と言う"実際的な目的"(※ルースにとっては実質的に命令ですけど)のために、人類学の方法論を駆使してこの研究を成し遂げた。ルースはリアルな日本を知らない(日本人への聞き取り調査や膨大な文献等をベースにしている)ので、記述には多少の誤りや勘違いも存在するが、全体的には日本の文化や日本人の一般的な特徴と言う物を(当の日本人が感嘆するぐらいに)かなり正確に記述している(※一方の新渡戸稲造は日本人であり、日本人と日本文化をリアルに知っていたが、日本文化の素晴らしさを国外に喧伝すると言う目的にあたり、記述において日本への批判性・客観性は薄まってしまった…これは仕方の無い事であろうと思う)。
 先ほど、「自国の文化や特徴を知るには、文化・風習の違う外国の人々の研究が時に有用であったりする」と書いたが、正にこのルースの「菊と刀」は日本と言う国を知る資料としてたいへん有益であると思う。この資料を第一の主要な基礎文献として、日本史の様々な資料、日本の地理関連(気候や環境も含む)の資料等も用いながら、以後の章で日本の歴史と文化(風習、特徴)等を明らかにしていきたい。


※注:私は"文化"と言う言葉をどのような意味で用いるか、この章の記述で迷っている。敢えて"文化"と言う言葉に抱合されても良い"風習"や"特徴"と言う言葉を、故意に並列的に扱っているのもそのためである。もちろん辞書的な意味での"文化"は、「人間の営みによって産み出された学問、芸術、道徳等」のことであり「その社会で受け継がれる生活や行動のあり方」(※三省堂国語辞典より)であり、そう言う意味では、我々の日々の慣習や行事、日本人全体としての民族的傾向も全てこれに含まれるのは間違いない。そもそも「文化に基づかない日本人の特質や風習等が存在するのか!?」と問われれば、今一つよく分からない。ただ、芸術から慣習まで幅広い概念を含む"文化"と言う一言で安易にまとめてしまうと、今後の記述で"微妙なニュアンス"を表現しづらくなると判断した。同時に、文化と言うのは未来永劫変わらないものではなく、時代と共に変わる流動的なものであり、日々の人々の特徴的な行動の一つ一つが、また新たな文化を形成していくとも考えられる(=文化から外れた特徴的な行動が新たな文化を形作る)。そんなこんな"色んな思索"が頭で巡っていて、まだ自分の中で固まっていない現在進行形の記述なので試行錯誤をお赦しください。専門家ではない私にとって、理念や本質を伝えるためにどの言葉を用いるかは、いつも悩む難しい点です(^_^;;)。

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