日本におけるキリスト教の伝道 3
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3.伝道の主体 ~誰が伝道をするのか?~
今回は、「誰が伝道を行なうのか?」と言う"伝道の主体"について考えたい。
復活されたイエスは、弟子達に次のように言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書)。
この聖書の言葉から明らかな事は、伝道の命令はイエスご自身が、イエスの弟子達にされていると言う事である。単なる弟子の思いつきや、人間的な思惑などから伝道が生じているのではない、と言う事・・・この点は、たいへん重要である。神ご自身が、伝道の主体であり源流なのである。
聖書は、神が救いを計画され、その救いを実行された事を明確に語る。"父・子・聖霊"なる神が"罪人の救いを計画"され、"父なる神"が罪人を贖うために御子を世に遣わされ、"神の御子"は十字架の死にによって救いを得るために世に来られ、"神の聖霊"は罪人に内住して罪人を救いを適用される。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(ヨハネの手紙Ⅰ)と書かれているように、神が御子を世に遣わしたこと、
「わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネによる福音書)と書かれているように、神が死に至るまで神の御旨に従順であられ救いを成し遂げたこと、
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネによる福音書)と書かれているように、私たちのために聖霊を遣わしてくださること、
・・・が明らかである。
神が救いを計画され、実行され、適用される。伝道の主は、徹頭徹尾、神なのである。神が選びそして救われるのでなければ、罪人は一人として救われることができない。人間側の努力では、神の正義を達成することは決してできない。しかし、「神は愛です」(ヨハネの手紙Ⅰ)と言う神の愛は「その独り子をお与えになったほどに」深く(ヨハネによる福音書)、その無限の愛は全世界を救っても有り余るほどに深く、罪人である私たちをも救いに招いておられるのである。
このように"伝道は神がなされる事業"であるが、一方でまたその伝道のために"人間"を用いられると言うのもまた事実である。神がその計画を実行するのに、わざわざ人の手を介さず、無限の力を持って超自然的に実行された方が確実かつ迅速はないのか?人間的な思考によれば、そのように考えがちである。しかし、神が超自然力を用いられるのは、むしろ聖書においては例外的であり、聖書は"歴史"の中で"人"の人生を通してその計画を実行されるのである。
旧約聖書の記述にあるように、神はモーセを用いてイスラエルの民をその奴隷の地から導かれた。神は、サムソンを始めとする士師達を通してイスラエルを裁かれた。神は、歴史において、族長や預言者や士師や王達の手を通して、その救いの御業を示された。
新約聖書においても同様である。イエス・キリストは、その時代の権力者や学者達ではなく、むしろ権力から最も遠い漁師や人々から嫌われていた徴税人らを弟子とされた。そして、イエスを3度も拒否したペトロや、キリストの弟子達を迫害したサウロ(パウロ)を、その伝道の働きに用いられたのである。
"人が伝道の働きに用いられる"と言う時、二通りの意味がある。一つは"教会"を通して、一つはそこに属する"個々人"を通して、その働きに用いられる。
キリストは、弟子達に"すべての国民を弟子"とするよう命じられた。ペンテコステの時には、(組織された)教会がその仕事を果たすように、聖霊によって強められた。弟子達は勝手に気の向くまま各地に伝道に赴いたのではなく、組織された(かつ組織されて間もない)教会から送り出された。この事は重要である。伝道の事業は、教会に与えられた特権であり義務であり、それはどの任意団体や会社にも取って代わる事ができないものである。
そして、教会を構成する個々人である"キリスト信者"、つまりクリスチャン一人一人もまた福音宣教に用いられる。その生活・・・つまり家庭、職場、学校、種々の社会的活動・・・の中で、福音を語る。否、救われた喜びを、人に伝えずにはおれないのである。もしこの大いなる喜びを黙して語らないのであれば、路傍の"石が叫びだす"(ルカによる福音書)に違いない。
しかしこれらの事実は、単に"人間的な行為"による伝道が人に救いをもたらすと言う事を、決して意味しない。そこには、吹く風のように目には決して見えないが、"聖霊"が働かれるのである。人が福音を伝える時、完璧である事は難しい。時には上手く伝えたように思ったりするが、時には"つたなく"しか語れない。時に論理的に語るが、時に感情的に話したりする。これら人間の目には"不足"と映る欠けた働きの断片一つ一つを、神は用いられる。聖霊が、各人に聖書の言葉を"神の言葉"と確信させてくださり、また聖書の内容を"悟らせて"下さり、そして"イエスは救い主である"との告白へと導いてくださるのである。もし伝道が、単に人間の知恵と力による事業であるならば、これほど不確かで辛い事業はないだろう。
伝道の主体は"神"であり、神の一方的な愛に基づく事業だが、伝道の働きには"人"が用いられる。神ご自身が救いを計画され達成され、伝道を命じられ、そしてイエスを頭と仰ぐ教会とそこに集う者一人一人が、喜びに満ちて福音を宣べ伝えるのである。
(2008年 3月 2日記載)
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