日本におけるキリスト教の伝道 2

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 伝道に関する種々詳述は、神学者や牧師等専門家の書いた書物に道を譲り、このシリーズ前半はなるべく簡潔に分かり易く書き記したいと思う。最初に、福音の内容について考えたい。

2.福音宣教の内容 ~福音とは何か?~

 「福音伝道をする」ないし「福音宣教する」と言う時、具体的な"伝える内容"がある事は明らかである。トヨタ車のセールスマンが、ホンダの車を勧めたりしないように、またキャノンのセールスマンがリコーのコピー機を勧めたりしないように、キリスト教の伝道者は孔子や仏陀の教えを伝えたりせずに聖書の教えを伝えるのである。当たり前の話だが。

 では、その聖書が伝えようとしている内容は、如何なるものなのだろうか?聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻(※日本語の新共同訳聖書だとページ数は2千ページ近く)もある。長い歴史において、様々な記者によって書かれた、これだけの分量の聖書に、統一的な見解と言えるもの、全体としてまとまりのあるメッセージと言うものはあるのだろうか?・・・そう思うのは、人として当然であろう。
 私は映像制作が生業なので、敢えて次のように書かせてもらうが、良い映画の脚本は「一言で(="簡潔に"の意味)その内容を表す事ができる」と言われる。つまり、あれもこれもではなく、"一本筋が通っている"と言う意味である。映画は、色んなキャラクターが複雑に絡み合い、色んなストーリーが展開していくが、伝えるべき明確なテーマを持っている。この一本の筋が通っていないと、たいていの映画はきちんと成立せず、たいてい興行が大失敗する。
 対する旧約聖書・・・長い歴史においてまた様々な記者によって編纂された・・・旧約聖書には、この一貫した統一的な"テーマ"と言うものはあるのだろうか?

 その答えは"Yes"である。旧約聖書は、創世記からマラキ書に至るまで、一貫して"来たるべき救い主"を指し示している。旧約聖書の冒頭の創世記において、エデンの園で「彼(※エバの子孫)はお前の頭を砕き、お前(※蛇の子孫)は彼のかかとを砕く」と言われ(※原福音と呼ばれる)、旧約聖書の最後に置かれているマラキ書においても「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」と言われる。数千年の隔たり、39巻もの隔たりが有りながら、明らかに一貫して"救い主の到来"を伝えているのである。
(新約聖書において)イエス・キリストは、自ら次のように語っている。
「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書)と。
イエス・キリストの時代の聖書とは、もちろん"旧約聖書"のことである。「旧約聖書は、救い主(イエス・キリスト)を証ししている」と明確に語っているのである。

 そして時至って、新約聖書の時代になると、救い主が到来した事が伝えられる。神から遣わされた独り子であり救い主"イエス・キリスト"について書かれた福音書と、その弟子達の言行録や手紙等の記事である。"旧約聖書の預言が実現した"、つまり"救い主が到来した"、それが新約聖書の内容である。"福音(=グッドニュース)"とは、正にこの事である。聖書には、次のように書かれている。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネによる福音書)。
これが、福音の中心であり、福音の本質・内容を、最も簡潔・明解に示していると言って良いと思う。「神が私達を救うため、その独り子を救い主としてこの世に送ってくださった」、これが私達に対するグッド・ニュース、つまり福音なのである。簡潔に言うと、そのように言える。

 福音を簡潔に言い表すと上記の様になるが、一方で聖書は様々な記者によって多くの記事が記されていて、福音が幅広い内容を網羅している事もまた事実である。それらの多様性(の一部)をここに取り上げる。

 聖書は、福音の事を、しばしば
"悔い改めの福音"と語る。イエスに先んじて荒野で「悔い改めの洗礼」(マルコによる福音書)を説いていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書)と神の国の到来と悔い改めの福音を宣べ伝えた。
 "悔い改め"は、"後悔"の事ではない。"後悔"は、自分が過去なした罪過の呵責の念にかられる事でしかなく、この世の悲しみは「死をもたら」すに過ぎない(コリントの信徒への手紙Ⅱ)。対する"悔い改め"は、神から遠く離れた自分の罪に対するへりくだった悲しみ、神の御心に適った悲しみは、「取り消されることのない救いにに通じる悔い改めを生じさせ」るのである(同コリント書)。
 イエスが十字架に付けられた時、左右には二人の死刑囚の犯罪人が付けられていた。一方は、自分の罪過に目を向ける事無くイエスに毒づいたが、もう一方の犯罪人はこう言った。
「お前は神も恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして「イエスよ、あなたのの御国においでになる時は、私を思い出してください」と言った(ルカによる福音書)。
この犯罪人の言葉に対して、イエスは次のように言ったのである。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同ルカ書)。
死刑によって生涯を終えようとしている犯罪者でさえ、悔い改めて、イエスを受け入れた者には、その罪が赦され、神の御国に入る事が許されたのである。これが"グッド・ニュース"でなくて何であろうか?

 福音は、また
"神との和解"を伝える。聖書は次のように語る。
「罪とは何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです」(コリントの信徒への手紙Ⅱ)。
旧約聖書に書かれた律法を、人間は完全に守る事ができない。つまり"行い"によって、人間は神の前に"正しい"とされる事ができない。一人の例外も無く、"義"とされる事は無い。人間は、その罪のゆえ神の裁きを受けなければならない。しかし、本来私達が受けなければならない神の裁きを、罪を犯さず神の御心に従った神の御子イエス・キリストが、十字架の死によって私達の代わりに受け、私達を贖い出してくださったのである。イエスは、私達のために完全に神から見捨てられたのである。イエスは、大声でこう叫ばれた。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書)。
この私達のために身代わりに死なれたイエスの姿を、旧約聖書のイザヤ書53章は見事に言い表している
(※下段の聖句参照)

 しかし、父なる神はこの十字架で亡くなったイエスを見捨て置かれず、3日目に復活させられた。同様に、このイエスを受け入れ信じる者にも、
"命が約束"されている。「独り子を信じる者が滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書)と言われている通りである。

 また、イエスは
"聖霊の約束"をしてくださった。天に昇ったイエスが、聖霊を送ってくださり、聖霊が救いを罪人に適用される。聖霊によって新たに生まれ、第二の誕生をする。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書)と、イエスが言われる通り、神が送られた聖霊によって人は新たに生まれ変わる事ができるのである。その同じ聖霊の働きによって、人間は聖書の言葉を「神の言葉である」と確信し、また聖書の言葉の意味を悟る事ができ、そしてイエスが神の独り子にして、救い主である事を信ずる事ができるのである。

 私達は、罪が赦され、命が約束され、聖霊を受けて、イエスが王である
"神の御国"で生きることができる幸いがある。これが"グッド・ニュース"でなくて、何であろうか?
 神の御国とは、"キリストの王国"や"天国"とも呼ばれる。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマの信徒への手紙)と書いてあるように、特定の場所や状況ではなく、聖霊によって与えられる"義と平和と喜び"を指している。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコによる福音書)とイエスが言われた神の御国は、確実にイエスを信じる者の中に訪れているのである。
 イエスを信じた人は、以前は神から遠く離れていた者であるのに、「栄光が神に永遠にありますように」(ローマの信徒への手紙)と神の栄光を表わす者へと変えられる。
伝道の最終目的は、"神の栄光を現す"ことである。
 そして聖書に約束された"主イエスの来臨の日"に、「王の王」(ヨハネの黙示録)であるイエスの前に集い、礼拝する事ができるのである。「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を仰ぎ見る」(同黙示録)のである。これが"グッド・ニュース"でなくて、何であろうか?

 福音とは、「失っている人々を、罪の咎と力、腐敗から救い、義と聖を与え、永遠の裁きを逃れさせ、天の永遠の完全な祝福に導きいれるために、神が、キリストを通してしてもたらして下さった"良きおとずれ"」の事である。福音の内容を包括的に漏らさず網羅して記載するのは、私の知力と聖書理解力では無理だが、"福音"の本質的な柱はこう言うものであると言って良いだろう。


※イザヤ書53章

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を、誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたし達の病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように。毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。
 彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らの償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる
 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品として、おびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。


(2008年 2月 3日記載)


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