カプチーノ限定・超短編小説 03
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さらばスバルよ
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源三は、自宅の居間で座椅子に座り、ちゃぶ台でお茶を啜りながら考え込んでいた。築40年の木造家屋は、あちこちに汚れや傷が目立っていた。居間の入り口扉の横の柱の傷は、息子の賢治が小さい時にカッターで傷つけた跡だし、壁の汚れは、長女の香里がやはり小さい時にクレヨンで何度もいたずら書きをしたのを、妻が雑巾で消した跡だ。その子供たちも今は立派に独立し、それぞれの家庭を築いて子供たちを育てているのだった。源三と妻しかいないこの家は、今やひっそりと静まり返っている。
考えこんでいる源三に急須を持って近づいて来るのは、妻の和歌子であった。
「どうしたんですか、そんなに考え込んじゃって。お茶のお代わりでもいかがですか?」
源三は、和歌子の台詞をちゃんと聴いているのかいないのか、突然こう言った。
「スバル360、売ろうと思うんだ」。
和歌子は、突然の夫の発言に少し驚いた様子だった。
「あの車、お売りになるの?ずっと大切にしてきたじゃないですか。良いんですか?」
源三は、言葉を噛み締めるように言った。
「70歳になったらな、運転辞めようと思ってたんだ。事故起こしてからじゃ遅いしな…。どうせ遠出の時は、賢治達のミニバンに乗って出かけるんだし。それにな、3丁目の中川さんところのせがれが中古車屋やっててな。あのスバル360なら、高く売れると言うんだ」。
「そうですか…。あなたの車なんだし、好きにしなさいな」。
「う~ん。そうだな…」と、言って源三は立ち上がり、やはり考え込みながら居間を出て行った。
源三は、小さいながらもしっかり屋根の付いたガレージに入り、スバル360の観音開きのドアを開いた。エンジンをかけると、2サイクルエンジンの軽い乾いたかん高い音がガレージ内に響いた。車をゆっくりとガレージから出し、源三は道路へ乗り出す。天気は晴天。大事に維持されたボディは、太陽に照らされ、とても40年以上経った車とは思えない光沢を放っていた。
源三は、スバル360を運転しながら考えていた。この車は、貧しい時代にようやく買った車。しかも長男が生まれた直後に買った、記念すべき車なのだ。最近の若者は、車でも何でもすぐに買い換える。物を大事にする事を知らない。車だけではない。異性関係も、まるで物を買い換えるように次々と変えていく。私には、理解できん。最近の車は性能も良くなったし、確かに便利になったとは思う。しかし、このスバル360のような技術者の魂を感じられる車が、最近とみに少ない。
自分も長年家電メーカーの技術者として生活の糧を得てきた身だったから、物資不足の時代に富士重工の技術者達が人生をかけて作り上げたこのスバル360には、同じ高度成長期を駆け抜けて来た者同士としての特別な愛着を感じていた。定期的に点検に出し、パーツは壊れる前に修理し、いつも新品のような状態を保ってきた。30代で家を建てた時には、スバル360用のガレージも作った。とても大型セダンが納まらないような、小さな小さなガレージではあったが…。会社の同僚や子供達にも、もっと大きな車に買い換えるように、しょっちゅう言われた。特に息子の賢治は、仲間と出かけられるアウトドア用の4WD車が欲しかったようだ。
そうこう考えているうちに、3丁目の中川さんの息子がやっている中古車屋に辿り着いた。最近は商売が波に乗っているようで、売り場も広がり50台前後の中古車が展示してあった。ここに来るのは、今回で3回目である。一回は、中川さんの息子の様子見。2回目は、スバル360の相談。そして、3回目の今回は"売る一大決心"をして来たのであった。
中古車屋の敷地奥の建物から、作業着を来た若者が一人、足早にやってきた。源三が、スバル360を駐車スペースに停める頃には、彼は既に車の横まで来ていた。
「源三さん!スバル360なので、すぐ分かりましたよ!」
源三は、中川さんの息子の方に顔を上げる。息子さんはまだ若く、30代半ばのようだ。若いのに会社を経営して成長させているとは立派なものだ、と源三は思った。源三は言った。
「やっと売る決心をしたよ」。
息子さんは、それを聞いてニッコリ微笑む。
「そうですか。まあ、とりあえず中で冷たいものでもどうぞ」。
中古車屋の簡素な応接スペースのこれまた質素なソファーに腰を下ろし、冷たい麦茶を飲んだ。デスクのむこうから、いろんな書類や筆記用具を抱えて、中川の息子さんが歩いてきた。
「え~と、これが書類です。それと、これが今回の買取見積りです」。
源三は、見積り書を覗き込んだ。
「こんなに高く買い取ってくれるのか…予想以上だなぁ。40年以上も経った車なのに、こんなに高く買ってくれるのかね?」
息子さんは、得意げに言った。
「これほど大事に乗られたスバル360、他に知りません。ボディもパーツも、まるで最近買ったようにピカピカです。エンジンもきちんとオーバーホールされていますし…。このスバル360は、稀に見る極乗車ですよ」。
そして、はにかんだように一言付け加えた。
「それに、源三さんは古くからの父の友人ですから…」。
「それは、すまんなぁ…」と、応える源三。
「ところで、源三さんは、もうお車には乗らないのですか?」
源三は、感慨深げに言った。
「まあ、年だしなぁ…。スバル360以上に素晴らしい車に出会えるとも思えないし」。
それを聞いて、中川さんの息子はしばし考えた。そしてボソッと言った。
「あの、源三さんにぜひお薦めしたい車が…」。
そう言ったかと思うと彼は席を立ち、源三を表の車両展示スペースへ誘った。
中川さんの息子が連れて行ったのは、一台の真っ赤なオープンカーの前だった。
「源三さん、これなんですが…」。
源三は、驚いていった。
「えっ!?これかい?」。
中高年者向けのセダンでも薦められるのかと思っていたが、スバル360とはまったく異質な、オープンの、しかも二人乗りのスポーツカー。
「中川くん、これって外車なのかい?」
中川さんの息子は、笑って答えた。
「いやいや、スズキの車ですよ。カプチーノって言うんです。コーヒーの名前みたいでしょ?スバル360と同じ軽自動車なんです。前のオーナーが、源三さんのようにとても大事にお乗りになっていて、ピカピカです。」
彼は、言葉を続けた。
「オープンにするのは簡単ですし、車体もしっかりした造りですし、運転も難しくありません。車体も小さいですから、源三さんのお宅のガレージにも納まりますよ。息子さん達も独立されている事ですし、奥さんと二人で出かけるにはピッタリだと思うんです」。
源三は、眉間に皺を寄せる。
「運転辞める決心をしたとこだしなぁ…。それにスポーツカーなんて、私には派手じゃないかねぇ…。家内が何と言うか」。
中川さんの息子さんは、笑った。
「無理にはお薦めしませんが、ぜひ話しの種にでも試乗していってくださいよ」。
5分後、源三はカプチーノに乗って路上にいた。スバル360とは、まったく違う操舵感と加速感。これほど、オープンエアーが気持ち良いものだとは知らなかった。そして、きびきび走ること、走ること。こんな小さいボディに、オープンの屋根だの、パワフルなエンジンだの、複雑な色んな機構だのをよく組み込んだものだ…源三は、元家電技術者として、スバル360に感じた技術者の魂を、このカプチーノに感じ取ることができた。
もう5分走ると、源三の心にフツフツとある計画が浮かんできた。オープン・スポーツカーで、家内の和歌子を海のドライブに連れて行ったらどんな顔をするかな?そんな事を考えていると、久しく失われていた青春時代の記憶と活力が戻ってきた気がした。
中川さんの息子には、この車をキープしておいてもらうように言って、帰ってから家内に相談…否、説得しよう。中川さんの息子も、なかなか商売上手だな…まんまと術中にはまってしまった。源三は、自然に口元が緩んだのに気がつかなかった。さらばスバル360よ、本当に長い間ありがとう。そしてカプチーノよ、これからの我等夫婦の新しい時代をよろしく頼んだぞ。そんな事を思いながら、青空と白い雲に続く地平に向かって、源三はカプチーノのアクセルを踏み込んだ。
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