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第二部:第四章 この人を見よ

78.希望の旅立ち

クロディウス、42歳の夏。軍団生活25年が経ち、遂に退役の日を迎えた。同期兵のアッリウスもクロディウスも、共に筆頭百人隊長プリムス・ピルスに昇進することはなく、騎士階級の称号も手に入らなかった。
元々騎士階級のアントニウスは、肩書きにもっと箔をつけるために、プラエフェクトュス・カストロルム(陣営隊長)に昇進しユダヤにしばらく残ると言う。代わりにフラウィス・フェリックスは陣営隊長を引退し、クロディウスやアッリウスと共にヒスパニアに戻る事となった。これでカッシウステント組の生き残りも、全員退役と言う事である。
クロディウスは、百人隊長をミヌキウス・マクシムスに引き継ぎ、旗手のケルシアヌス・アッリアノスが副隊長に昇進した。クロディウスは、2人に言う。
「ミヌキウス、ケルシアヌス。本当に、私によく仕えてくれた。感謝している。」
ミヌキウスが言う。
「いえ、私こそ、隊長にお仕えできて光栄でした。」
日頃は決して感情を露わさない、無骨なケルシアヌスもこう言った。
「隊長が明日からいないと思うと、寂しいです。」
「今生の別れって訳じゃない、お前達が退役したら、ヒスパニアかローマでまた会えるだろう。そうしたら、共に祝宴をあげよう! このカファルナウムの安寧と平和は、お前達に任せたぞ。シカリ党もまだこの町に潜伏しているから、十分に気をつけよ。カファルナウムの人々にも、敬意を払って尽くしなさい。」
クロディウスがそう言うと、新百人隊長のミヌキウスが答える。
「全力を尽くします。」
3人は握手を交わして、抱擁した。

その後、クロディウスとアレクサンドリアは、アンナスの家を訪れた。アンナスとヤツフェルが、既に家の前で待っている。それだけでなく、他の長老や町の大勢の人達がクロディウスを待っていた。
「アンナス長老、これまで色々とありがとうございます。感謝しきれません。」
そう言って、クロディウスはアンナスの年老いた皺だらけの手を握った。
「私の方こそ。クロディウスさんのお陰で、この町全体が平和になりました。町から、貴方にお礼の品があります。」
後ろに控えていた若者2人が、何十本もの巻物が入った大きな袋を四つ差し出した。
「これは私達の聖典です。創世記からマラキの預言書まで、数年かけて長老達が書き写したものです。異国の方に聖典を贈ると言うのは異例な事なのですが、反対する者は誰もおりませんでした。貴方は、これを受け取るのに相応しい方です。」
クロディウスは感銘を受けて、心から感謝した。
「これほど光栄な事はありません。大事にさせていただきます。」
アレクサンドリアで買えるどの本よりも、自分にとって尊い巻物だと思った。イエスがこの巻物の何を語っていたのか、この巻物とどういう関係があるのか、じっくり読んで考えようと思う。本好きなポッペアにも、この巻物を読んで聞かせよう。
クロディウスは巻物の入った袋を受け取り、ヤツフェルに向き直った。
「ヤツフェル、出発の準備はできたな?」
「はい、クロディウスさん!」
背嚢を背負ったヤツフェルがそう答えると、クロディウスは言った。
「もう父さんと呼んで良いんだぞ?」
ヤツフェルは照れくさそうに笑った。
「ちょっと、まだ無理です。」
それを聴いた町の人々は笑った。ヤツフェルは、アンナスの方を向き直って言った。
「アンナス長老。これまでの御恩は忘れません。ありがとうございました。」
アンナスは言う。
「元気でな、ヤツフェル。病気や怪我には、気をつけるんじゃぞ。」
「はい、アンナス長老。必ず手紙を書きます!」
ヤツフェルは、アンナスと抱擁を交わした。クロディウスとアレクサンドロスとヤツフェルは町の人々を愛し、そして町の人々も彼らを愛した。3人を取り囲む町の人々は、別れを惜しんで泣いた。
アンナスと町の人々は言った。
「平和があるように!」
クロディウス達も言った。
「平和があるように!」
こうして、3人はカファルナウムの町を出発した。

その翌日、カファルナウムの駐屯基地前に整列した雄牛隊と大鷲隊、そして司令官や士官達に見守られて、基地を出発した。最後までアントニウスとは反りが合わずに、平行線を辿ったままだった。今後も彼は、富や名声を求めて生きていくのであろう。
クロディウスは、連隊長にアントニウス宛の手紙を一通託した。彼が出発した後に、アントニウスに渡すよう頼んで。残虐な面があるアントニウスを、このユダヤの地に残していく事が心配だった。手紙には、同期兵としての思いを正直に綴った。その手紙の内容を、どう受け取るかは彼次第である。

カエサリアへの道中は、意外と賑やかだった。フラウィスとその従僕、アッリウスとその従僕、そして従僕のアレクサンドロスとヤツフェル、加えて驢馬や馬車や護衛の軍団兵が24人も続く。元百人隊のかつての部下達が皆、退役した隊長達に同行したがり、元フラウィス隊、元アッリウス隊、元クロディウス隊から、1組ずつくじ引きで、カエサリアまで同行するテント組3組24人が決まったのである。総勢30人を越え、ちょっとした行軍である。 19歳のヤツフェルが大きな背嚢を背負っている姿を見ると、17歳の自分の姿を思い出した。大きな背嚢を背負って歩き続けた、あの夏のことを。
歩きながら、クロディウスはアレクサンドロスに言った。
「契約通り、今日からアレクサンドロスは自由人だ。これからどうする?」
アレクサンドロスは、迷わず答えた。
「ご迷惑でなければ、今後もずっとクロディウス様にお仕えしたいと思います。クロディウス様とあのイエス様がいなければ、今頃私はこの世にいないのですから。」
クロディウスは、笑った。
「お仕えしたいと言っても、私は騎士階級じゃないし、そもそもうちはパン屋だ。執事を雇えるお金もないし、きっと毎日すごく暇だぞ?」
「では、日中はマルクスさんの本屋を手伝ったり、『アレクサンドロスのギリシャ料理店』を開店してお金を稼ぎましょう。」
それを聴いていたフラウィスが、口を挟む。
「それじゃ一応騎士階級の私が、その料理店の経営を手伝うと言うのはどうかな?」
クロディウスは、少々驚いた。
「フラウィスさんが、何故?」
フラウィスが答える。
「騎士階級と言っても、何かしたい事業がある訳じゃない。だったら、誰かの事業を手伝うって言う道もありかな、と。一人身だし、軍団預金もけっこう貯まっているしね。店が繁盛すれば、他の町に店を増やしても良いし。」
クロディウスが笑った。
「十分な事業計画じゃないですか!」
クロディウスにとって、一つ確かなことがあった。自分は、虚栄心を満たす肩書きや名誉、そしてお金には無頓着だったかもしれない。しかしそのおかげで、仲間との信頼や町の人々との友情を育むことができたのである。

4日後に、一行はカエサリアに到着した。5年ぶりに、懐かしのカエサリア基地に戻ってきた。
カファルナウムの軍団兵24人はそこで任務を終え、それぞれの隊長らと別れを惜しんで駐屯基地に戻って行った。彼らの代わりに、船の出航まで一行の世話役をする若い兵士達8人が、カエサリア第Ⅹ軍団から遣わされてきた。
彼らのリーダーの、十人隊長と思われる隊員があいさつした。
「第Ⅹ軍団フレテンシスのイタリア隊の十人隊長、コルネリウスです!船の出発日まで、私達が皆様のお世話を担当させていただきます。」
元気な十人隊長だった。フラウィスが挨拶に応える。
「ありがとう、コルネリウス十人隊長。元陣営隊長のフラウィスです。」
「元雄牛隊の百人隊長のアッリウスです。」
「元雄牛隊の百人隊長のクロディウスです。」
一通り挨拶を終えると、8人の軍団兵は彼らの荷物を手分けして持ち、宿泊先の兵舎に向かった。 歩きながら、イタリア隊のコルネリウスがクロディウスに語りかけた。
「クロディウス隊長のご活躍は、かねがね伺っておりました。」
クロディウスは、はて何のことだろうと思った。このユダヤでは派手な戦闘にも参加していないし、25年前のヒスパニアのヴィリアトゥス村の戦闘をこの若者が知っている訳もない。若い兵士は、続けて言った。
「このカエサリアでユダヤ人の友人ができたのですが、彼はカファルナウム出身で、雄牛隊の百人隊長の話を良く聴かせてくれました。クロディウスと言う百人隊長が、町のために精一杯尽力してくれているって。素行の悪い軍団兵を処罰したり、シナゴクを建てたり。それで、彼はローマ軍の中にもまともな奴はいるって事で、ローマ人の私とも友達になる気になったそうです。」
「なるほど。」
クロディウスは、得心した。ユリウス・カエサルのような武勇伝じゃなくても、人の心に届くことはあるのだな、と。
「クロディウス隊長は、どうやってユダヤの町の安寧と平和を保っておられたのですか?将来私もそうしたいので、方法とか秘訣とかを教えていただけないでしょうか?」
クロディウスは少し間を開けて、コルネリウスに顔を向けて答えた。
「秘訣か・・・そうだな。神を愛し、人を愛することだ。君もそうすればよい。」
「良い言葉ですね!」
隣を歩いていたヤツフェルは、それを聴いて微笑んだ。
その言葉は、いつか自分がクロディウスに言った言葉だった。

その夜、兵舎でクロディウスはヤツフェルに、木箱を渡した。ヤツフェルが木箱の中を見ると、動物の木彫りの置物がたくさん入っている。
「これを、お前にプレゼントしよう。」
ヤツフェルが尋ねる。
「これは何ですか?もはや、人形で遊ぶ年齢では・・・もう19歳ですよ?」
クロディウスが答える。
「その人形には、意味があるんだ。船旅は長いから、その道中で話してあげよう。」
ヤツフェルは、精巧に彫られた動物達を1体ずつ取り出して眺めた。ヤツフェルは、意味が分からなかった。
「本当はそこに烏もあったのだが、今は訳あって欠番だ。タッラコに戻ったら、また職人に作ってもらうつもりだ。」
それを語るクロディウスの顔は懐かしそうでもあり、一方で悲しそうにも見える、とヤツフェルは感じた。

その3日後、船の出航日が訪れた。一同は帆船に乗り込み、イタリア隊のコルネリウス達8人がそれを見送る。船が岸を離れる。岸で大勢の人が手を振っていて、コルネリウス達も手を降っている。クロディウス達も、手を振り返した。
岸から遠ざかりつつある船の甲板で、クロディウスはヤツフェルに言った。
「この先に、お前に見せてあげたいものがたくさんある。エジプトのファロス島の大灯台、ヒスパニアのラスファレラスの水道橋、ローマの都。」
ヤツフェルは、離れ行く岸辺の人々に手を振りながら言う。
「ワクワクします!」
クロディウスは言った。
「ワクワク以上のものが待っているよ。」
ヒスパニアのタッラコ、そしてローマには、何者にも変え難い、愛する家族達が待っていてくれるのだ。


(完)