日野・コンテッサ

(2008年11月16日記載)

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 往年の国産名車を取り上げるシリ~ズ、第四弾!なんと今回は、日野!日野って言ったら、バスとかトラックしか思い浮かばないと思うけれど、実は昔乗用車を作っていた事があるんです。その名は、コンテッサ!さすがに公道で見るのは、よほどラッキーでない限りほとんど不可能ですけど…。日野の歴史と共に、この名車を紹介しましょう。

 日野自動車は、第二次世界大戦中の1942年に、いすず自動車(※当時は東京自動車工業)から独立した日野重工業を発端とする。それより遡ると、ルーツとして東京瓦斯電気工業に行き当たるのだが、それはまた"いすずの歴史"を取り上げる際に触れようと思う。
 日野自動車は、戦後はディーゼルエンジンの技術を生かして、大型トラックやバスなどの大型車を生産した。戦後の1950年代初頭、日本の自動車メーカーは欧米のメーカーとの格差を縮めるべく努力を重ね、各社は欧米のメーカーと技術提携を行いノックダウン生産等を行っていた。日野は、1953年にルノー公団(※当時は国営企業)とルノー4CV生産に関する技術提携を結んだ。
 リアに21psの748ccの水冷直列4気筒エンジンを積む、4人乗りのセダン。しかし、当時は(現代の我々が想像できぬほど)車はたいへん高価なものであり、タクシー用車両としての需要が大半だった。そこで、日野は日本の実情に合うように改良を加えつつ、1957年には完全に4CVすべての国産化を達成。


 日野製4CV(日野オートプラザにて)

 1961年には、4CVで得た技術を生かして、日野が独自にデザインした"コンテッサ900"をデビューさせた。ベースは当然4CVだが、デザインは近代的なスタイルになり、ホイールベースも若干延長された。全長は3,795mm(全幅1,475mm、全高1,415mm)で、車重は720kgで、5人乗り。ちなみに"コンテッサ"とは、イタリア語で「伯爵夫人」と言う意味。
 エンジンは新開発の893ccの直列4気筒OHVが搭載され、出力は35psと十分にパワーアップし、最高速度は110km/hに達する。しかも、日本初のオートチョーク(!)を採用している。このエンジンには、やはり新開発の3速MTが組み合わされている。足回りでは、リア・スイングアクスルが半球形ジョイントとアジアスアーム付きに改められた


 コンテッサ900(日野オートプラザにて)

 現代の我々が見ると、までFFかせいぜいFRのようなデザインに見えるが、4CVと同じRR車である。そのため、リアにトランクはなくエンジンがぎっしりと詰まり、冷却用のグリルが空いている(※下記写真参照)。
 コンテッサ900の動力性能は抜群で、1963年第一回日本グランプリでは、何のチューニングもせず外車勢を抑えてクラス優勝し、1,300cc以下スポーツカークラスでも2位に入った…凄い。
 それを受けて、1963年にはスポーツモデルの"コンテッサ900S"が、ラインナップに追加された。エンジンは40psにパワーアップされた。コンテッサ900は、スタイリッシュなスタイルとスポーティな性能で高い人気を獲得する。


 後方から見たコンテッサ900(日野オートプラザにて)

 ちなみに、コンテッサ900には、珍しいバージョンが存在する。ヨーロッパでは、1リッタークラスのライトウェイトスポーツカーが流行し、コンテッサ900に注目したイタリア人の天才デザイナー"ジョバンニ・ミケロッティ"が、コンテッサ900をベースにしたスポーツカーの製作を申し入れた。日野は、エンジン、トランスミッション、シャシー、足回りパーツ等を提供し、ミケロッティスタジオでスペシャルカーが製作された。これが"コンテッサ900スプリント"である。
 トリノ、ジュネーブ、ニューヨークのショーで、そして1963年には東京(※当時は全日本自動車ショー)で発表され、そのデザインの美しさで注目を集めた。しかし試作車であり、残念ながら市販化はされなかった。。


 コンテッサ900スプリント(日野オートプラザにて)

 初代コンテッサの後を受けて1964年に登場したのが、2代目の"コンテッサ1300"である。ミケロッティ・デザインのデザインで、"トレネーゼスタイル"と呼ばれる独特の美しいシルエットのボディを持つ。
 駆動方式は900と同じくRRで、1.3リッターの直列4気筒OHVエンジンは55psを発生する。高速連続走行を可能にする、精密なメカニズムが自慢の車だった。ミッションは、フロアシフトが4速MT、コラムシフトが3速MTだった。

 コンテッサ1300(日野オートプラザにて)

 全長は4,150mm(全幅1,530mm×全高1,390mm)、車重940kgと大型化し、室内の快適性は増している。もちろんトランクスペースは、フロント。
 1964年9月にはデラックス版が追加され、1965年11月にはエンジンをツインキャブ化(65psにアップ)し、フロントブレーキをディスク化した、スポーティ・バージョンの"1300S"も追加されている。


 後方から見たコンテッサ1300(日野オートプラザにて)

 1965年4月に登場した"コンテッサ1300クーペ"は、やはり前述のミケロッティがスタイリング・デザインを担当し、1963年の全日本自動車ショーに参考出品され、それが量産化のための改良を受けて市販されたものである。エンジンは、65psのツインキャブ版を積み、スタイルの空気抵抗が減った事もあり、最高速度は145km/hに達した。
 インテリアは、ウッドパネルが奢られ、エンジン回転計も加えられ、ナルディ製のステアリングホイールが装備された。シートはセミバケット・タイプとなり、ミッションはフロアの4速MTのみとなった。
 コンテッサ1300クーペは、当時の国産車のレベルとかけ離れた美しさを持っていた。1965年7月にイタリアで開催された"第5回国際自動車エレガンスコンクール"や、1967年6月にベルギーで開催された"サンミシェル自動車エレガンスコンクール"で、それぞれ名誉大賞を受賞すると言う快挙を成し遂げた。日本よりも、ヨーロッパでより高いデザイン評価を受けた車だった。
 美しくそして性能もスポーティだったが、ただし価格も85万8千円と当時の同クラス国産車と比較して高価だった。


 コンテッサ1300クーペ(日野オートプラザにて)

 コンテッサ900スプリントと同様、ミケロッティは、ただ一台だけ""コンテッサ1300スプリント"を完成させたが、結局これも生産される事は無かった。実はこの頃、日野自動車は乗用車部門からの撤退を検討しており、1300スプリントを生産化する余裕は無かったのである。

 日野自動車はモータースポーツにも熱心で、いつくかの入賞を果たしているし、プロトタイプのレーシング・マシンも作っている(…決勝には出走できなかったが…)。
 しかし、そんな日野自動車も1967年にトヨタ自動車の傘下に入り、遂に乗用車部門からは撤退した。そんな訳で、新たな日野の乗用車を見る事は今は適わないが、コンテッサは日本と世界の自動車史に名を刻み、そして伝説となったのである。


2010年4月追記:隣り町の朝日自動車にて、コンテッサを見ました。














 マイ・コレクションより"日野コンテッサ・クーぺ(1965)"



参考・引用文献
国産名車コレクション/日野の歴史   (アシェットコレクション)
The 絶版車ファイル/1950~1969  (インフォレスト)
日野オートプラザ展示プレート


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