オースチン・ヒーレー・スプライト

(2008年10月19日記載)

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 前回のフェラーリ250GTOに引き続き、往年の名車を取り上げよう。その車の名は、オースチン・ヒーレー。
 公道で走行するのを見る事はさすがに難しくなっているが、幸運にも僕は公道ないし博物館等で何度か目にする事ができた。オースチン・ヒーレーを語るには、まずドナルド・ヒーレーと言う一人の男から話しを始める必要があろう。

 ヒーレーは、第一次世界大戦中に事故に遭遇した後、英国の民間航空局に勤務していた。この時期に、彼は車やモータースポーツへの関心を高め、ラリーでの活躍を見せる。1933年にライリーに雇い入れられ、一年後にはトライアンフに移籍した。
 世が第二次世界大戦に突入すると再び空軍に入ったが、彼はハンバーへ移り装甲車の開発を始めて、ハンバー・スカウトカーを開発するが、これはスポーツカー並の性能だったと言う。戦後、ドライバーとしては年齢的に厳しい事から、スポーツカー・コンストラクターの道を目指す。
 彼は、1945年にドナルド・ヒーレー・モーター社を設立。他社の部品同士を組み合わせての車作りである。1946年に一台のセダンが出来上がる。その名は、"ヒーレー・エリオット"。最高速度は170km/hで、当時世界で最も速い量産車であった。エリオットの次には、ロードスターモデルの"ヒーレー・シルバーストーン"を生産する。1950年には、アメリカのナッシュ社と共同で"ナッシュ・ヒーレー"を世に送り出した。

 
オースチンのエンブレム

 しかし、ヒーレーは早くも次の手を考えていた。パワーユニットに。オースチンの2.7リッター直列4気筒OHVエンジンを90psまでチューンし、3段ギアボックスと組み合わせた。シャシーは、息子のドナルドが中心となつて設計。フレームは、強靭なラダータイプ。サスペンションは、オースチン用をベースに組み合わせる。ボディは2シーターロードスターで、当時には珍しい曲面ガラスを採用した。
 完成したモデルは、1952年のロンドンモーターショーにて"ヒーレー100"として発表された。このスポーツカーは、観客の視線を釘付けにした。そしてBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)の会長のレオナード・ロードも、この車に注目した。BMCは、その年にオースチンと、モーリス、MG、ウーズレー、ライレー等が属するナッフィールド・グループが合併して結成された英国最大の自動車メーカーである。
 ロード会長は、BMCがヒーレー100の設計を買い取り、生産し、ロイヤリティを支払う事を、ヒーレーに提案する。ヒーレーはこれを受諾して、翌日からこの車は、"オースチン・ヒーレー100"と呼ばれることになった。
 ちなみに、オースチンは、ハーバート・オースチンにより設立された自動車会社である。オースチン社は設立後、低迷して危機もあったが、オースチン7によって最悪の恐慌の時を乗り切りるが、1938年に宿敵モーリスから、レオナード・ロードを役員として迎え入れた。1941年にオースチンが没すると、ロードが会長職に就いた。そして、自動車メーカー各社がBMCに合併された後も、ロードが会長職に就き、依然として力を持っていたのである。

 オースチン・スポーツ(1933年製/石川県・日本自動車博物館にて)

 ヒーレー100は、ロングブリッジにあるオースチン工場ではなく、ジェンセン社で生産され、1957年にはMG工場に移され、MGAやMGBと共に平行して生産された。その間に、ヒーレー100は改良されたり、6気筒バージョンや、コンペティション仕様のSバージョン(最高速度215km/h)も出されている。1959年には、2.9リッター版のヒーレー3000に発展する。最高速度は、185km/hに達していた。

 このオースチン・ヒーレーに、1958年、弟が誕生する。それが"オースチン・ヒーレー・スプライト"である。当時の量産オープンモデルとしては、世界にも例を見ないモノコック構造を採用し、車重は600kg以下と言う軽量であった。エンジンはA30の950cc直列4気筒OHVを積む。ヘッドライトは、当初リラクタブル・ヘッドライトの予定だったが、レギュレーションに合致しないと言う事で、ボンネットフード上に配置されるあの独特なヘッドライトに変更された。これが正に"カエルの目"のようなので、"フロッグ・アイ"と言う名称で呼ばれるようになり、現代の日本ではしばしば"カニ目"と呼ばれる(笑)。ほぼ同時期のトライアンフのTR3に似たライト形状だ。このスプライトの登場で、ヒーレー3000の方は"ビッグヒーレー"と言うニックネームで呼ばれるようになった。

 オースチン・ヒーレー・スプライト(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 スプライトは、1961年にMkⅡに進化する。姉妹車としてMGミジェットが登場したのに合わせ、デザインはオーソドックスな物に改められ、カニ目は廃止された。翌年には、エンジンは1.1リッターに拡大された。

 オースチン・ヒーレー・スプライト(河口湖自動車博物館にて)

 1964年にはMkⅢへ発展し、脱着式のサイドウィンドーは巻き上げ式になり三角窓も付いた。1966年にはMkⅣに進化し、エンジンは1.3リッターに拡大。ソフトトップは、折畳式になった。しかしこの年、BMCはジャガーと合併してBMH(ブリティッシュ・モーター・ホールディングス)に名を変える。2年後には、更にローバーやトライアンフ等を擁するレイランド・グループと合併し、BLMC(ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション)となる。
 その合併劇の結果、MkⅤは"ミジェット"が"MkⅣ"とフロントグリルが共通になり、また英国内での販売に限られてしまう。怒ったドナルド・ヒーレーは、翌年BLMCとの関係を清算してしまった。そのため、1971年からは、ヒーレーの名を外して単にオースチン・スプライトと呼ばれるようになったが、すぐに生産は終了する。ミジェットの方は、1979年まで生産された。

 オースチン・スプライト(石川県・日本自動車博物館にて)

 さてこの間、1973年には、ジェンセン・ヒーレーが登場している。英国産のスポーツカーによって財をなしたアメリカ人キエール・クイベルが、ビッグ・ヒーレーの復活を画策し、ジェンセン・モータースの株を買い取って経営権を手に入れ、ドナルドとジェフリーのヒーレー親子を重役に据えて、スポーツカーの設計を依頼した。ボディはアメリカの安全基準をクリヤーしていたが、特徴は乏しい(^_^;;)。
 エンジンは、ロータス製の142psの2リッター直列4気筒DOHC16バルブを積み、980kgのボディを195km/hまで引っ張ると言う。しかし、このジェンセン・ヒーレーは、オイルショックの直撃を受け、1975年にジェンセンは経営難に陥り、1976年遂にヒーレーの生産を中止した。
 これ以降、ヒーレーの名を冠した自動車は登場していないのである。

 ジェンセン・ヒーレー(埼玉県内にて)

 こうして、奇しくも終焉を迎えてしまったヒーレー・ブランドであるが、世に出されたヒーレーの名車達は、エンスージアスト達に愛されてやまないのである。


2017年6月24日追記:サイクリング中、関宿城にて現役で走るオースチンヒーレー・スプライトを見ました!オーナーの方が、撮影を快諾してくださいました。









 マイコレクションより"オースチン・ヒーレー・100"

 マイコレクションより"オースチン・ヒーレー・100/6カブリオレ"

参考・引用文献
オースチン・ヒーレー (デルプラド・カーコレクション) 他



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