ダットサン・セダン

(2008年 7月27日記載)

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 前回のトヨタ・パプリカとトヨタの歴史に引き続き、日産自動車の歴史について触れつつ、初期のダットサンを見てみよう。

 ダットサンのルーツは、快進社が大正3年に最初の自動車"DAT自動車"を製造した時に遡る。ちなみにDATは、3人の出資者のイニシャルである。その後、小型自動車が誕生した時、DATの息子と言う意味で"DATSON"と命名した。"SON"は"損"に通じるとして、昭和7年"DATSUN"と改められた。
 日産自動車の会社のルーツは、戸畑鋳物株式会社と日本産業株式会社の共同出資で、1933年12月に設立された"自動車製造株式会社"である。そして、翌年5月に"日産自動車株式会社"に改称。創始者は、自動車の未来を信じた鮎川義介。欧米と同等な日本の自動車を生み出すべく、横浜に6万坪の東洋一の工場を建設した。

ダットサン1号車(1932年・11型フェートン/日産本社ギャラリーにて)

後方から見たダットサン1号車


 量産型の"ダットサン1号車"がラインオフしたのは、1935年4月。量産は軌道に乗って年間2000台になり、1937年には生産累計1万台に達する。ダットサンは、とてもコンパクトで日本の道路事情に合っていた。ダットサン1号(上記写真)の全長は、僅か2,710mm!現代の軽自動車よりも、遥かに短いのである。初期型のエンジンは水冷直列4気筒の495ccの10ps(※後期型は736cc)と小排気量ながらも、各部の作り込みは本格的だった。ボディタイプも、セダン、クーペ、トラックから選択できた。ダットサンは、瞬く間に小型車の代名詞となった。
 しかし、日本は戦争への道を突き進み、不幸にも日産は乗用車生産から一旦離れる。


ダットサンクーペ(1937年/石川県・自動車博物館にて)

日産乗用車(1938年・70型/日産本社ギャラリーにて)


 敗戦後、1947年に乗用車の生産禁止令が限定解除され、日産はすぐに"スタンダードセダンDA"を製造・販売する。しかし、このDAは、トラックシャシーにボディを架装した旧式&急ごしらえの車。日産は(※日本のメーカー全てが)、世界の技術から取り残されていた。そこで、日産は欧米の技術と生産方式を学ぶため、英国のオースチンと1952年に契約を締結した。

ダットサンスポーツ(1952年製・DC-3型/日産本社ギャラリーにて)


 1953年3月には、1.2リッターエンジンを積む"A40サマーセットサルーン"の生産を開始(※後に1.5リッターの"A50"へモデルチェンジ)。日産は、1年でほとんどの部品を国産化し、1956年5月に完全国産化を達成した。



 日産の技術陣は(もともと高い技術的素地があったせいもあり)、オースチン社から素早く多くを学んだ。
 そして遂に、1955年1月に完全国産の"ダットサンセダン(110型)"、1959年8月に"ブルーバード(310型)"をデビューさせる。

 ダットサンセダン(110型)は、斬新なデザイン・居住性・耐久性・経済性等に優れていた。発表後一ヶ月の受注生産台数が、当時発売のダットサントラック(120型)とあわせて2,000台を突破した。
 110型は更に改良が加えられ、1956年6月に113型として発売された。全長は3,860mm(全幅1,466mm、全高1,540mm)、車重は880kg。直列4気筒OHVの860ccのエンジンの出力は、24psだった。

ダットサンセダン(1956年製・113型/日産本社ギャラリーにて)

 一方の初代ブルーバードは、スタイリングが良く、メカニズムも優れていた。エンジンは直列4気筒のOHVエンジンで、1リッター版が34ps、1.2リッター版が43ps。フロントはダブルウィッシュボーン、ブレーキはユニサーボ機構を採用(※国産初)。ブルーバードは市場で圧倒的な支持を得て、ライバルのトヨタ・コロナを圧倒した。1961年末には、生産台数10万台となった。累計生産台数は4年間で24万台に達し、本格的な海外輸出も始まった。日産は、このブルーバードで、世界から認められたのである。

初代ブルーバード1200(1961年製・P311型/日産本社ギャラリーにて)

 日産自動車は、モータースポーツにも参戦する。モータースポーツは、車の走行性能や耐久性能を世界に示す絶好の機会である。

 日産初の本格的モータースポーツ参戦車が"ダットサン富士号(210型)"である。210型は、110型をベースに、1957年10月に発売された。210型の大きさは、ほぼ110型と同じで、車重が925kgとやや重くなっている。直列4気筒OHVエンジンは1リッターとなり、出力は34psとなり、110型と比較して10psのアップ。
 "富士号(※下写真)"は、翌年夏の豪州ラリー(19日間/16,000km)に"桜号"とコンビで出場し、クラス優勝を果たした。桜号も同クラス4位と言う好成績を残し、世界に日産自動車の技術力の高さを証明した。

ダットサン1000富士号(1958年製・210型/日産本社ギャラリーにて)

 1960年は、3月にオースチン社との提携契約が切れ、日産自動車にとって新たな出発の年となった。提携解消後に最初に発売したモデルは、中型乗用車のセドリックだった。ブルーバードに続くヒット作となった。販売台数が増え、1962年に追浜工場を、1965年には座間工場を完成させる。
 日産は、海外でも積極的な展開を図る。1960年に米国日産を、1961年にはメキシコ日産を、1966年にはオーストラリア日産を設立した。

初代セドリック・カスタム(1961年製・G30型/日産本社ギャラリーにて)

 日産は、1960年代にニューモデルを続々と開発。セドリック1900(1961年)、フェアレディ1500(1962年)、ブルーバード410型(1963年)、シルビア(1965年)、プレジデント(1965年)、サニー(1966年)等をデビューさせていく。日産の車種拡大は、急ピッチで進んでいった。

2代目ブルーバード1200SS(1964年製・410型/自宅近所にて)

2代目ブルーバードを後方から見たところ(千代田区内/市ヶ谷旧事務所近辺にて)

3代目ブルーバード1600SSS(1969年・KP510型/日産本社ギャラリーにて)

初代シルビア(1966年・CSP311型/日産本社ギャラリーにて)

初代サニー1000デラックス(1966年・B10型/日産本社ギャラリーにて)


 そして1966年に、高い技術力を持ったプリンス自動車工業を吸収合併し生産と販売を拡大していくのだが、その辺は今後このコーナーでスカイラインGT-Rなどを取り上げる機会があると思うので、その時に書き記したい。


2011年5月15日記載:三郷の朝日自動車にて、初代ブルーバードならびに3代目ブルーバードSSSを見ました。
 













マイ・コレクションより"初代ブルーバード1200(1959)"

マイ・コレクションより"初代ブルーバード1000(1959)"

マイ・コレクションより"3代目ブルーバード・1600SSS(1969)"

マイ・コレクションより"初代セドリック1900(1961)"

マイ・コレクションより"初代シルビア(1965)"

マイ・コレクションより"初代シルビア(1965)"

マイ・コレクションより"3代目グロリア(1967)"

マイ・コレクションより"初代ローレル(1968)"

マイ・コレクションより"サニー1200GX(1970)"

マイ・コレクションより"バイオレット(1973)"

参考・引用文献
国産名車コレクション/日産自動車の歴史 他   (アシェットコレクション)
昭和の名車/あの時、あのクルマ              (JTBムック)
The 絶版車ファイル/1950~1969       (インフォレスト)
日産本社ギャラリー展示プレート


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