アストン・マーティン

(2006年11月26日記載)

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 アストン・マーティン…その名を聞いて何を思い浮かべるだろうか。英国が世界に誇るプレミアム・スーパーカー。ジェームズ・ボンドの乗るボンドカー。石田純一の愛車…あっ、これは無いか…。
 アストン・マーティンはたいへん輸入台数が少なく、街中で見かけるのはフェラーリやランボルギーニよりも希なスーパーカーである。各言う僕も、アストン・マーティンを街中で見かけたのは、現在までにたった5回である(※写真撮影に成功したのは下記の3件のみ+ミュージアムで一回)。スーパーカー世代の申し子、街中車ウォッチャーの僕が見かけないのだから、やっぱり希な車なのだろう。いずれのアストン・マーティンも、きっとガレージの中で大切に維持・保管されているに違いない。
 アストン・マーティンを取り上げる機会は今後おそらく無いだろうから、今回アストン・マーティンの歴史についても触れながら、その名車達の系譜を辿っていこう。

 アストン・マーティンの歴史は、ライオネル・マーティン大尉と、リチャード・バムフォードと言う二人の裕福な青年が偶然の出会いから、自動車修理工場を開いた事から始まる。1913年当時、当時人気のあったシンガーと言う車のロンドン代理店となり、バムフォード&マーティン社を設立。これが、アストン・マーティンの前身である。
 2人は多くの自動車愛好家と同様に、シンガーを改造してヒルクライムやスプリントレースに毎週出場するが、すぐにスポーツカーではない"実用車"シンガーの限界を感じる。そして彼等は、オリジナル車製作へと進む事になる。イソッタ・フラスキーニのシャシーに、最新鋭のコベントリー・シンプレックス・エンジンを積んだ車を作る。その第一号車が、"アストン・マーティン"と名付けられた。アストンはライオネルが活躍したヒルクライムの地名、マーティンはもちろん姓名である。
 第一次大戦後、彼等は新しいアストン・マーティンを次々と製作する。ライオネルは、その車で数々のレースに参加。モータースポーツ界で有名になったアストン・マーティンは、自然と量産・販売されるようになっていく。しかし、ライオネルの個人工房に過ぎなかった会社は、すぐさま経営不振に陥る。そして経営不振になるごとに、有力な顧客の貴族や富豪の援助で再建をしていく。アストン・マーティンほど度重なる経営危機を経験し、オーナーが変わっていった会社はないだろう。第二次大戦までに、ルイス・ズボロスキー伯爵、A.C.ベルテリ、ゴードン・サザーランドと、次々と経営権が移って行った。現在のアストン・マーティンのエンブレムの基本的なデザインは、1934年のベルテリ時代に確立して現在までほぼ不変である。

 アストンマーチンのエンブレム
(※デイビット・ブラウン経営時代には、"ASTON MARTIN"の文字の上に小さく"DAVID BROWN"と書かれていた)

 第二次大戦後、サザーランドは新世代モデル開発に乗り出そうとするが、またもや経営難に陥ってしまう。そして1947年、歯車メーカーやトラクター工場を経営していた英国有数の実業家ディビッド・ブラウンが、アストン・マーティン社を買収する。ちょうどその頃買収したラゴンダ社と共に、経営を統合した。ディビッド・ブラウンは実業家と言うだけでなく、筋金入りのエンスージアストだった。
 そして彼は、ベントレー設計の直列6気筒DOHCエンジンを搭載した、超高性能スポーツカーの生産を始める(※当時はDOHCは超ハイテク技術であった)。このスポーツカーには、ディビッド・ブラウン(David Brown)の頭文字"DB"が冠せられた。これが、アストンマーティン・DBの始まりである。このモデルは、彼が経営から手を引く1972年までDBの名が冠せられた。
 ディビッド・ブラウンの潤沢な資金をバッグに、アストン・マーティンは順調なスタートを切る。1948年に、最初の量販車DB1がデビュー。1950年には、よりスタイリッュなデザインのDB2を発表。ル・マン等のレース活動にも、積極的にワークス参戦。1951年には、DB3がデビュー(その後、DB3S、DBR、グランプリカーのDBR4/5と進化)。1962~1963年には、プロトタイプ・マシーンを作る。

アストンマーチンDB3(石川県・日本自動車博物館にて)
↑この写真のDB3のドロップヘッド(コンバーチブル)は、ハンドメイド総アルミボディで20台しか生産されなかった。

 DB3はレース専用車的色合いが強かったが、一方でアストン・マーティンは直列6気筒エンジンを積むGTカーの開発にも乗り出した。1958年にデビューした、DB4である。強固なプラットフォームに、新開発の3,670ccのオールアルミエンジンを積んだ。エンジン出力は240psで、最高速度は225km/hに達したと言う。足回りは、フロントにダブルウィッシュボーン、リアがワッツリンクとコイルスプリング懸架のリジッド。それに、"スーパーレジェッラ"と呼ばれる軽量なボディ構造が採用された。この方式は、ミラノのカロッツェリアのツーリングが特許を持つ手法だが、市販車に採用されたのは"初"だった。このように、DB4は非常に贅沢な設計と高い技術が採用された車だった。DB4は、1963年6月の生産終了まで何度か改良された(※5つのシリーズに大別できる)。1959年には、高性能版のDB4GTも登場した。パワーが302psまで高められ、2シーター化されたモデルである(最高速度は240km/hに達する)。これをベースに更に軽量化したザガード製ボディを載せたDB4GTも1960年に登場したが、19台しか造られなかったという(※僕は実車は見たこと無いが、写真ではたいへん美しい車だった)。

 1963年7月、DB4の後を継いでDB5が登場した。標準モデルは282ps(最高速度240km/h)だが、1964年には314psを発揮するヴァンテッジ・バージョンも登場した。DB5は、エクステリア的にはDB4のアップデート版と言った感じで、外観は大きな変化は無い。車体サイズもDB4と同じで、全長4,570mm(全幅1,680mm×全高1,340mm)である。ボディ構造も、DB4同様、軽量の"スーパーレジェッラ構造"である。問題の多かったディビッド・ブラウン製の4段ギアボックスは、その後ドイツ製のZF製の5段ギアに変更されている。
 DB5の最終的な生産台数は、1,025台(クーペが約900台、オープンボディのドロップクーペが120台あまり)だった。生産台数はたいへん少なかったが、世界中の人々には強烈な印象を残した。そう、映画"007/ゴールド・フィンガー"中で、ボンドカーとして登場したのである。フロントバンパーのマシンガン、煙幕噴出装置、電子制御の装甲板、ハブキャップ格納式のカッター、射出座席等の特殊装備は、世の少年の熱い注目の的となった。DB5は、史上最も有名なアストン・マーティンである。
 DB5の生産は、1965年に終了した。

 アストンマーチンAMヴァンテージ(orAMV8?)(千代田区事務所近辺にて)

 後姿(千代田区内/事務所近辺にて)


 DB5の後を受けて、1965年10月に登場したのがDB6。基本設計は、DB4から連綿と続くものである。ホイールベースは延長され、エクステリアデザインは左右にテールフィンを模したデザインから、空力に優れたダックテール風に変わった。調整式リアダンパーが標準装備になり、パワステやエアコン等の快適装備もオプションで設定された。DB6からは、ドロップヘッド(※オープンボディの事)にヴォランテと言う名称が与えられている。
 DB6に変わるニューモデルとして企画されたのが、1967に発売されたDBSである。新世代エンジンとして開発中のV8エンジンを前提に開発された車で、シャシーの基本はDB6だったが1970年代風にモダンになりボディが拡大された。しかしV8が間に合わず、当初は直列6気筒エンジンが積まれていて、V8エンジン搭載のDBS-V8登場は1970年である。
 ここで、再びアストン・マーティンに"経営危機"が訪れる。トラクター販売の不振とV8エンジンへの多大な投資が重なり、ディビッド・ブラウンが経営から手を引く事になった。ここで、一旦アストン・マーティンのDB(※ディビット・ブラウン)名称のシリーズは幕を閉じる。

 1972年に経営権を引き継いだのは、カンパニー・デイベロップメンツ社だった。この春、アストン・マーティンは、DBSのフロント周りのデザインを大きく変更したニューモデルを発表した。6気筒モデルの"AMヴァンテッジ"とV8の"AM-V8"である。アストン・マーティンから、一世を風靡したDBの名前は消えた。しかし、新会社の人員整理等のリストラ策やアストン・マーティン・オーナーズクラブの資金援助も虚しく、結局生産ラインは停止してしまう。
 で、これを見かねたアメリカ人のピーター・スプラグ、カナダ人のジョージ・ミンデン、英国人のアラン・カーティスの3人が出資して破産を救い、1975年に"アストン・マーティン・ラゴンダ社"として再スタートを切った。
 しかしである…アストン・マーティンの経営は、また人の手に移る。アストン・マーティン・ラゴンダ社は、1987年にフォードの資本傘下に入った。1993年には、同じくフォード傘下のジャガーのコンポーネンツを利用した"DB7"が登場した。ここに再び、"DB(ディビッド・ブラウン)"が復活した。

 アストンマーチンDB7(渋谷区恵比寿にて)

 DB7は、1995年にフルモデルチェンジされた。DB7のラインナップは、クローズドのヴァンテッジクーペと、オープンのヴォランテ。エンジンパワーは420psで、最高速度は(リミッター付きで!)265km/hに達する。車体のサイズは、全長4,665mm(全幅1,923mm×全高1,318mm)と、往年のDBより(特に全幅が)大型化している。2001年には、2+2クーペのV12ヴァンキッシュが追加された。460psの6リッターV12エンジンに、F1スタイルのパドル6速ATを採用し、最高速度は306km/hに達すると言う。インテリアもゴージャス。正にアストンマーティン最強のフラッグシップカーである。
 価格は…まぁ、当然高いです。DB7が、ヴァンテッジで1,565万円、ヴォランテで1,675万円。V12ヴァンキッシュに至っては、2,340万円である(現在は2,730万円!)。

 DB9ヴォランテの後姿(事務所近辺にて)

 2004年には、DB7の後継モデルの"DB9"がデビューした。V型12気筒DOHCエンジンを搭載し、パワーは450ps。新しいアルミボンデッドフレームを採用し、最新のゲイドン工場で製造される記念すべきモデルである。衝突実験は、ボルボセーフティセンターで行われている。しかも、世界で最も厳しいと言われるカリフォルニア州のLEV基準もクリアしている。走行性能、安全性能、環境性能を高い次元で融合している車だ。価格は、ヴァンテッジで1,795~1,848万円、ヴォランテで1,953~2,005万円と、価格も大きくアップした。正にスーパーカー。

 英国が誇る(って言うか、既に米国のフォード傘下だけど)"アストン・マーティン"。時代の中で紆余曲折を得ながらここまで来たけれど、この先どこへ行くのだろう。取り合えずフォード傘下になった事でようやく安定基盤を得たけれど、自動車業界は生存競争が熾烈だから、やっぱり利益を出さないといつかフォードにも切られちゃうかも…。がんばれ、アストン・マーティン!


2020年7月15日追記:サイクリングで、栃木県の魔法陣スーパーカーミュージアムに行き、DB7ヴァンテージを見ました。















 マイコレクションより"アストンマーチンDB5"

 マイコレクションより"アストンマーチンV8ヴァンテージ"

 マイコレクションより"アストンマーチンDB9"


参考・引用文献
アストンマーチンDB (デルプラド・カーコレクション)
ロッソ 2002年2月号他  (ネコ・パブリッシング)
最新国産&輸入車購入ガイド     (JAF出版情報)


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