クリスチャンのための仏教講座

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6.仏教の祭事との関わり方

 過去5回に渡って、釈尊による仏教の誕生から日本までの伝播の歴史、並びに仏教の教義や各宗派の概略を、簡単にではありますが考察してきました。

 我々が苦悩に捕らわれているのは、我々が無知・迷妄状態にあるからで、禅定等の瞑想によって心理を悟りそれを体験することで、この世の苦悩から脱する事…短く言い表すと、これが仏教の根本的な本質の教えだと、私はとらえました。もっと簡単に言うと、人は生まれ、病になり、老い、やがて死んでいく、この世のものは滅びていく、これを全面的に受け入れて、人生にかかわる物事に執着せずに人生を送るのだ…と言うことではないだろうか。
 インドで誕生した仏教は、まずインド本国でヒンズー教の影響で変容し、日本へ伝播する途中の中国やそしてこの日本で様々な影響を受け、変質を余儀なくされていきます。例えば、
「位牌」「年忌法要」 はもともと儒教のもので、仏教とは関係ありませんでした。「戒名」も、同様に仏教とは本来的に関係ありません。「お墓を大切にする」「追善供養する」と言う風習も、中国で付加されたものです。「お札」「お守り」 も、道教のものでした。また、仏教は死に関して本来"けがれ"の考え方が無く(※そもそも釈迦は死後の世界について語っていない)、「清め」「お払い(霊障の除去)」は日本の神道の影響と考えられます。密教等の儀式(※釈迦は儀式には否定的だったと私は認識しています)に至っては、そもそも仏教のものではなく、バラモン教から取り入れたものです。お線香などの「香」についても、仏教本来の教義には何の関係もありません。数多くの仏様や菩薩等も、大乗仏教運動の中から生み出されていった(※釈尊一代で真理に辿り着いたとの教えに否定的な考え方が背景にあり、多くの仏や菩薩がそもそも釈尊以前から存在していたと言う考え方が発生してきたためと、私は認識しています)ものですが、初期仏教は釈尊一仏のみを礼拝していました。

 こうしてみますと、本来の仏教独自の祭事、習慣と言える物は、実は根本的には何もない事が分かりますが、日本人はそれらを仏教の祭事として認識していますので、私達クリスチャンもそれに関わる時に慎重さが求められます。キリスト教徒の私達が、日常に見られる仏教の祭事に関わる時、どう言う態度をもって臨んだら良いのか、関わっていけば良いのか、最も関わりの頻度が高い"お葬式"を例にとって、考えてみたいと思います。ただし、こうすべきと言う正解は無いように思いますので、個々人の信念に従った対応が求められると思います。

関わり方その1:「その場の雰囲気を壊さない」

 これは、社会の一般常識に従った関わり方と言えます。「郷に入っては郷に従え」的な関わり方です。例えば、教会でキリスト教式の葬儀をしている時、参列者にお経を大声で唱えられたら良い気のする人はいないでしょう。それと同様に、仏教式のお葬式では、こちらの自我を押し通さず、皆と同じような行動様式を取る、と言う関わり方です。お香を(単なる芳しい因習として捕らえて)あげ、遺影の前では(死者に祈りを捧げるのではなく)残された遺族のために主に祈る、と言う事になるでしょう。
 こう言う態度は、世間一般の多くの人がとっている態度と言えると思います。

関わり方その2:「していい事、そうでない事を区別する」

 上記のような行動に抵抗のある方もいると思います。次の関わり方は、自分ができる事と自分ができない事を分けて、葬儀に臨むと言う方法です。例えば、式には列席して遺族にお悔やみは申し上げ、遺族のために祈るが、お香は遠慮させていただく、と言うような関わり方です。ただし、こうした場合も、事前にご遺族に自分の立場を打ち明けて置く事は必要だと思います。
 ただこうしたやり方は、ご遺族の"心情"よりも、自分の利己的な"信条"を優先させているだけではないか、と言う批判も実際にはあります。

関わり方その3:「こちらの立場を説明して式に臨む」

 上記のような関わり方にも対抗のある方は、葬儀の時間よりも早めに伺って、ご遺族に十分なお悔やみや慰みの声をかけ、式には出ないと言う関わり方も、方法の一つとしてあるかと思います。そうした場合、早めに行って葬儀のための準備を率先してお手伝いする、と言うのも良いかと思います。こうした方法を採っておられる牧師もいる、と聴いております。


 他にも方法はあるかもしれませんが(例えば、葬式そのものに出席しないとか…これはちょっと非常識ですね)、だいたい方向性としては、この3つぐらいに絞られるかなぁ…と思います。私は、1~3のすべての経験がありますが、未だに「この方法で式に臨む」とは決めていません。先述の通り、どれが正解と言うものは無いと思いますが、最も大切なのは、ご家族の亡くなった悲しみの中にある遺族のために、何が最善の策かを考えてあげる事が大切かと思います。頑なな利己的「原理主義」に陥らず、一方で自分の信ずる主なる神様が悲しまないよう偶像礼拝に走る事無く、自分の中でベストな選択していくのは容易なことではありませんが、自分で納得して式に臨むのが大切だと思います。
 仏教の葬儀に限らず、異教文化社会で生きるクリスチャンには、コリントの信徒への手紙Ⅰの8章の言葉がヒントの一つになると思います(時間がありましたら聖書を開いてみてください)。私達は主から多くの事を許されていて自由に行動できますが、その行動が弱い人々を罪に誘う原因とならないように、それらの人々の良心を傷つけないようにしなさい、と言う事です。私達は皆自由ですが、この社会で共に生きる他者に対する配慮を持って日々の生活を生きていく事が求められていると思います。

最後に

 1年以上に渡って、僕自身、仏教に向き合ってきました。近所のお寺の境内を散策しながら、しばし思索に耽る事もありました。キリスト教でないから学ぶべきものは一つも無いと言う事ではなく、そこから様々なものを学ぶ事ができたと思います。釈迦を初め、仏教各派の宗祖や教祖と言われる人が、人々の苦しみに思いを馳せ、その苦しみから脱却させ、自らも悟りに達するため様々な努力・修行をします。彼らの人生において多くの葛藤があり、幾多の困難があったと思います。それらの人々の姿を通して、私達は罪に満ちたこの世、完全に作られたはずの世界が破壊されつつある現実の世界、と言うものを見る事ができます。

 1年に渡った仏教の研究と考察を終えようとしていた今月(※10月)の中頃、一冊の本に出会いました。「牧師さんになったお坊さんの話」(松岡広和著/いのちのことば社フォレストブックス)と言う本です。著者は、天台宗のお寺の次男で仏教系の大学を出て大学院まで進んだ方ですが、韓国でキリスト教に出会い、後に牧師になった方です。その本は、キリスト教だけでなく仏教についても分かりやすく書かれていて、頷かされる事が多い内容でした。もちろん長年に渡って仏教の修行をし、学んでこられた松岡牧師と、たかが1年間仏教を勉強した私とでは大きな隔たりはありますが、学びの方向性としては大きな間違いのない仏教考察だったかなぁ…と思っています。
 最初は、仏教の祭事にどう対応すべきなのだろう…と言う視点で始めた仏教研究ですが、もっと幅広い視野を持つ事ができました。僕はクリスチャンであり聖書の言葉を真理と信じていますから、仏教の教えに救いの真理を見い出す事はできませんが、それでもこの一年間の仏教の学びは、僕個人にとって無駄ではなかったと思っています。

(2005年10月30日記載)

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