クリスチャンのための仏教講座

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4.仏教の教え

 今回は、仏教の「教え」について見てみる。実のところ、1回目と2回目の釈尊の伝記でも「教え」の多くが述べられているのだが、ここに改めてまとめてみたい。とは言っても、最初に述べたように、仏教の経典は5,000以上もあるから、その教えの本質を見極めるのは、本職の僧侶でもなかなかたいへんな事なので、概観する程度になるのをお断りしておく。また、(宗派の違いは次回述べるが)ここで述べた教義は、必ずしもすべての宗派が是認しているわけでもない事もあらかじめお断わりしておく。また、仏教の信者や知識人がキリスト教の教えを語る時、勘違いと言うか、頓珍漢な事を言っている例を時折見かけるが、キリスト者の私が仏教の教義について述べているので(極力正当に書いたつもりでも)やはり頓珍漢な面もあるかも知れないから、あらかじめ謝っておきます。ごめんなさい。

8つの苦悩

 釈尊の伝記でも述べられているが、釈尊は四苦
「生・老・病・死」 を感じ、更に 「愛別離苦(あいべつりく)」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとくく)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」 を併せた八苦からの解脱を目指して修行を始めたと言われる。それぞれ解説すると、「愛する人と別れなければならない苦悩」、「嫌な人とも会わなければならない苦悩」、「求めても得られない苦悩」、「五蘊とは"色・受・想・行・識"と言う人間機能すべてを指し、健康である事ゆえの苦悩(食べたり、寝たり、異性を求めずにはいられないと言った苦悩)」となる。

四諦と八正道

 釈尊が、これらの苦悩から脱するために用いた方法が、
「四諦(したい)」と呼ばれる。4つの真理と言うことである("諦"とは"あきらめられた真理"と言う意味)。具体的には、「苦・集・滅・道」と呼ばれる。苦悩(苦)があるからには、それは発生(集)したのであり、発生したからにはそれは除去(滅)することができ、そのための実践方法(道)が有り得る、と言うことである。これは、そもそもインドの古い医学教科書に由来する考え方だと言う。
 人間には、本来高次元の智、清明な意識が実現される能力の芽が、各自の心霊にまどろんでいる。その芽は
「一切智(いっさいち)」 と呼ばれるが、あらゆる苦悩は、それが 「無明(むみょう)」 (無知や迷妄)によって発生すると見る。つまり一切智が様々な混同により隠されて、苦悩が生ずるのであり、それを除去する方法 「道諦(どうたい)」 もちゃんと存在すると言うことである。
 その具体的なものが、
「八正道(はっしょうどう)」 である。「正見・正視・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(しょうけん・しょうし・しょうご・しょうごう・しょうみょう・しょうしょうじん・しょうねん・しょうじょう)」の八つで、「正しい見方、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい禅定」と言うことである。八正道には、智慧と解脱は含まれていないが、戒律によって正しい生活をし、日々心がける生活によって禅定がもたらされ、それにより智慧が現れ、解脱に至るとも考えられる。

五戒

 次に、仏教の「戒律」について述べよう。
「律」 とは、釈尊の僧侶の集団(サンガと言う)で、実際に何か起こる度に追加されていった細々とした決まりと、その罰則規定である。「律」は、共同体内部での和合のための規則、社会に対する心配り、つまり対世間的である。それに対して、 「戒」 は罰則規定が無い。「戒」は、目指すべき生活習慣、習慣的自己規制、つまり出世間的である。その最小限の基準として、 「五戒」がある。
 「五戒」と言うのは、
「不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい)・不飲酒戒(ふおんじゅかい)」 の5つの禁戒である。意味は、それぞれ「殺さない」、「盗まない」、「異性と交わらない」、「事実に反する事を言わない。約束を破らない」、「酒を飲まない」である。不妄語戒のうち、悟っていないのに悟ったと嘘をつく"大妄語"が最も重い罪で"波羅夷罪(はらいざい)"とされた。これつぐ罪として、僧残法、不定法、捨堕法がある。
 五戒を護るのは、現代社会では非常な困難を伴う。不殺生戒に従えば、蚊一匹足りとも殺せない。不邪淫戒と言っても、日本の僧侶は結婚している者も多い(日本の僧侶は世界で唯一結婚する仏教僧侶である)。不飲酒戒に至っては、完全に守っている僧侶を見つける方が難しい。これらの戒は、先述のサンガのような精神集中を必要とする共同体の暮らしには有効だったと考えられるが、日本では緩やかに「目指すべき方向、こころざし」として志向されているような感じを受ける。
 この他に、どこかのお寺で「戒」を授けていただく場合に授かるものとして、「十重禁戒」と言うものがあるがここでは省略。

六波羅蜜

 戒と律について述べたが、「律」の膨大な細則は日本の現実にほとんどそぐわないものばかりで、「戒」についても尊守できないものが多い。「戒律」を完全に守れなくとも、「彼岸」に至る実践的方法が(大乗仏教的立場から)ある。
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」 がそれで、六つの「波羅蜜(パーラミター=至彼岸の意味)」に至るための方法論である。この考え方は、此岸(しがん=こちら側)は煩悩に悩み苦しんでおり、川向こうの彼岸(ひがん)は平和で穏やかな状態である事が前提となっている(「彼岸」と言うのは、前回も述べたが"中国産"の言葉である)。
 六つを挙げると、
「布施(ふせ)」、「持戒(じかい)」、「忍辱(にんにく)」、「精進(しょうじん)」、「禅定(ぜんじょう)」、「智慧(ちえ)あるいは般若(はんにゃ)」 である。
 「布施」とは、お坊さんに渡すお金の封筒を思い浮かべる人が多いと思うが、元々は積極的に相手を喜ばせる行為、贈与する事である。贈与するのは、お金だけではなく、笑顔、眼差し、優しい言葉、座る席、泊まる宿なども布施である。布施は、布施したことすら忘れる所まで行き着く事を目指す。
 「持戒」とは、「戒」を保つ事、つまり「良き生活習慣を保つ事」である。布施が積極的に人を喜ばせる事なら、持戒は人の邪魔をしない、むさぼらない事だろう。例えば自分が良いと思う行いが、必ずしも他人には喜ばしいことではないかもしれない(重荷かもしれない)、そこまで考慮するのだ。
 「忍辱」とは、何が起こってもすべて「自業自得」とわきまえて、責任を転嫁しない覚悟である。
 「精進」とは、終わり無き終点を目指し、成果(過去の業績や手柄)を喜ぶのではなく、努力そのものを楽しむと言う事である。
 「禅定」とは、苦悩を解決するのに意識の変容を求め、その変容を体験するために瞑想し、瞑想の果てに実現する精神集中状態が禅定である。「禅定」を通して、初めて「智慧」が得られる。仏教は、我々の意識の底に
「マナ識(末那識/まなしき)」 と呼ばれる無意識の自己執着があり、更にその底には 「アーラヤ識(阿頼耶識/含蔵識)」 と呼ばれる深層心理を想定している。瞑想と言うのは、自分がアーラヤ識から滲み出てきた者として受け入れることであるとも考えられる。
 「智慧(あるいは般若)」と言う概念は、言葉では説明しきれない「空の思想」を体現することだと言える。智慧は、
「大円鏡智(だいえんきょうち)」、「平等性智(びょうどうしょうち)」、「妙観察智(みょうかんさつち)」、「成所作智(じょうしょさち)」 の四智に分類される。それぞれ「鏡に写るものはすべて暫定的なように、自分の頭に写ったものも永遠ではない事」、「平等観」、「観察の深さ」、「行動の円満さ」に、智慧が成就している状態を言うと考えられる(この四智の上位に 「法界体性智(ほっかいたいしょうち)」 をおいて、五智とする場合もある)。色々分類される智慧(般若)だが、その本質は、あらゆる現象はこちらの意識の変容で姿を変え、時には消失すると言う事。いわゆる「色即是空」である。

四無量心

 釈尊は、禅定における心の方向性を示している。
「四無量心」がそれで、/FONT>「慈・悲・喜・捨」の四つである。「慈(マイトリー)」は他者への無差別的な慈しみ、「悲(カルナー)」は他人の悲しみに自己を同調させる事、「喜(ムディター)」は忌み嫌うことなく他人の喜びを共に喜ぶ事、「捨(ウペークシャー)」は感情の突出した部分を捨てること(つまり平成)、である。瞑想の際には、心をこの四つの方向に、無限に拡大させていく意志が必要である。

無常・縁起・無我・中道

 「無常」は、釈尊が世界の基本認識の基本に据えた言葉。あらゆる現象が、常に変化し続けると言う認識。この世にまったく同じ事態は、二度と訪れない。「苦」が滅するのも、無常であるがゆえである。
 
「縁起」とは、縁(よ)って起こると言う意味で、すべての物事を関係性の中で見ると言うことである。縁起が、無常と言う見方の背景にある。物事が生起するには必ず「因」があるが、その他に「縁」と言う条件が合わさって(つまり「因縁」)、現状がある(「苦」もその一つである)。縁起の思想は、後に「十二因縁」としてまとめられる(ここでは省略)。釈尊は、宇宙の起源と終末については答えなかったが、他のあらゆる現象は「縁起」によって解釈した。ちなみに、輪廻の永遠に途絶えない因果の流れを「業(カルマ)」と言う。
 
「無我」とは、本来「諸法無我」と言う認識の言葉として使われる。ちなみに、「諸法無我(しょほうむが)」「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」は、初期仏教の三大思想、三法印(さんぽういん)と呼ばれる。で、「無我」と言う言葉の意味について述べる。「我」の原語は、パーリ語の「アッタン」、サンスクリットの「アートマン」で、宇宙的真理(ブラフマン)の個人による現れとする見方である(それは理想であり完成形と言える)。しかし、人の「我」は、無明と業で曇っているから、この我執を離れて捨てること、つまり「無」となる事が必要である。すなわち、これが「無我」である。
 
「中道」とは、釈尊が五人の比丘(※男子出家者の事)に説法した教え。両極端の二辺(快楽のまま暮らす凡俗なあり方と、苦行によって魂を浄化しようとするあり方)を示し、そうではなくその中道を行くべきだと説く。

唯識


  「唯識(ゆいしき)」 とは瞑想によって立ち現れる煩悩まみれの心の諸相を、極めて冷静に凝視する事で生まれる意識。唯識は、ヨーガの行"瑜伽行(ゆがぎょう)"を通じてこそ有効だとも考えられている。自己も外界も、すべては「識」の転変によって構築され、識は八つで「現・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」と前述の「マナ識」「アーラヤ識」を想定している。禅定に精励することで、相対的な世界と自己との区別(ぶんべつ)がやがて無くなり、つまり主客が一体になり、「無分別智(むふんべつち)」と呼ばれる最高の智慧が実現し、そこではすべての汚れを離れ、思惟を超越し、清らかで永続的な歓喜に満たされると言う。

 仏教の主な教えについてざっと見てきたが、当然の如く細かい点や教義に触れていくと当然このページには収まらない(5,000もの経典があるのだから)。また各宗派になると教義は色々と異なるので、それは次回の日本の仏教の宗派で見ていきたい。


★本章のポイント整理

・僕なりの解釈だが、仏教の教えの本質(※柱)は、我々が苦悩に捕らわれているのは、我々が無知や迷妄状態にあるからで、禅定等の瞑想によって真理を悟りそれを体験することで、この世の苦悩から脱することだと考えられる。
・したがって、日本の仏教で見られる「供養」、「戒名」、「位牌」、「年忌法要」、「お祓い(霊障の除去)」、「お清め」、「お祓い」と言った習慣や教義は、仏教とは本来、本質的に関係ないと考えられる。

(2005年 6月 5日記載)

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