クリスチャンのための仏教講座

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3.仏教の伝播

 さて、二回に渡って釈迦についての(概略の)伝記を見てきた。仏教は、その後各地に伝播していくわけだが、日本には現在、主な宗派だけでも、華厳宗、法相宗、律宗、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の13派の仏教宗団がある。宗派の数だけ取ってみれば、日本は世界最大の仏教国と言うことになる。何故、これほどまでに教義が細分化ないし多極化してしまったのか、その歴史から追ってみようと思う。
 前回まで、釈迦の表現をシッダッタ(※シッダールタ)とかブッダとか色々と表してきたが、このページより"釈尊"に統一させていただく。

南伝仏教と北伝仏教

 釈尊の死後、仏教は南方、北方に広がっていく。まずは、南伝仏教を見てみよう。
 南伝仏教は、スリランカを起点に東南アジア全域に広がったもので、釈尊在性当時の教えをほぼ原型に近い形で保存しているとされる。仏教は仏滅から百年ほど経つと、戒律の存続を巡り議論が起こった。生きた規範の釈尊亡き後、教団を維持する規範としての「律」が尊重されることとなったが、これがとても細かい決まりであった。何か起こるたびに追加された規則であり、比丘(男性出家者)には250、比丘尼(女性出家者)には348もの細則が残された。これらは時代の変化には対応しきれず、色々と問題を起こすこととなった。最も大きな問題は、金銀銭の布施を受ける事が妥当かどうかと言う問題だった。長老達は反対し、進歩派は寛容を求めた。進歩派は一万人集まり大衆部(たいしゅぶ)を結成した。こうして教団は、保守派の上座部(長老部)と進歩派の大衆部の二つに、根本分裂する。釈尊当時のサンガ(僧侶の集団)の姿を守ろうと言うのが"上座部"であり、スリランカから東南アジアへ広がった。現在、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等で行なわれるのが南伝仏教である。これらの南伝仏教が南で発展したのは、サンガの規定「律」を尊守するには、暖かい土地でないと守れない規則なども多かったのも、要因の一つかも知れないと言うことだ。逆に言うと、仏教が北へ伝わるには、「律」に柔軟さを持たせる必要があったとも言える。
 北伝の動きが始まったのは、紀元前一世紀くらいからとされる。多くの西域人が、パミール高原を越えて中国西部に流入を始める。逆に、インドにやってくる中国人も出てくる。中国人は高度な文明を持って誇りも高かったので、仏教を受け入れて経典を翻訳する中で、老荘思想等の中国思想と混じり合っていく。主に老荘思想の言葉が仏教の訳語に用いられたため、仏教が中国色を帯びていく(儒教の影響なども受け、仏教各派が別な宗教かと思えるほどに拡大していく)。

小乗仏教と大乗仏教

 小乗(ヒーナヤーナ)と大乗(マハーヤーナ)と言う言葉があるが、「ヤーナ」とは乗り物の事で、「マハー」は大きな、「ヒーナ」には小さなとか、卑しいとか言う意味があるそうだ。「大乗」と言う言葉が最初に使われたのは"般若経"で(訳語では摩訶衍/まかえん)、「小乗」と言う言葉は「大乗」から見た蔑称であり、「大乗」より遅れて使われ始め、「法華経」で多用される。
 仏教が根本分裂した事は先ほど述べたが、分裂後二百年ほどの間に二十もの部派に分裂した。大衆部系九部、上座部系十一部と言われる。それぞれのが正当性を主張するために、多くの経典が編纂された。パーリ五部、漢訳四阿含(しあごん)などの初期経典はこうしてできたため、そこに一貫性を見出す事は難しい。こうした僧侶達の専門化の動きに対して、富裕な在家(※出家していない人)信者の中に、経典を学びながら自由な発想で釈尊を思い、「ジャータカ」と呼ばれる釈尊の前世物語や、「チャリヤーピタカ」と呼ばれる仏伝文学を作り上げていく者も出てくる。それぞれの部派が自己正統化に励む中で、こうした自由な発想で釈尊を捉え直そうと言う、いわゆる"大乗仏教運動"が起こってくる。大乗仏教運動の中で、小乗仏教とされたのは上座部の一派の「説一切有部(せついっさいうぶ)」のみがだったが、中国に伝わるとすべての部派に拡大され、初期仏教全体までが小乗と呼ばれるようになる。
 小乗仏教は、実在した釈尊一仏を礼拝するのに対して、大乗仏教は多くの仏や菩薩達を生み出していった。前述の「ジャータカ」なども、釈迦のような人物が一代でできるはずがないと言う発想で、「前世譚(ぜんせたん)」を物語る。生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と語ったり、母親マーヤーの右脇から生まれたとか、そういう類の伝説がまことしやかにどんどん創作されていく。釈尊以外の仏や菩薩も、縦横無尽に次々と作り出されていった。釈尊の過去には、「過去七仏(かこしちぶつ)」が想定され、未来には弥勒仏(みろくぶつ)が想定される。また、様々な用途に応じて人々を救う菩薩も生み出されていった。癒す力としての薬師如来、慈悲深い観音菩薩、深い智恵の文殊菩薩、驚くべき行動力の普賢菩薩等々。これはすべて「大乗諸仏(だいじょうしょぶつ)」と言う考え方に基づく。如来は我々凡人とは直接関わらず、お遣いとして菩薩が我々を救済するのである。諸仏は、時間的広がりと空間的広がりをカバーするようになり、地方仏と言う信仰を生み出し、釈尊が否定していたインド古来の宗教の十一面観音や大黒天なども流れ込んでくる。
 大乗仏教では、個人の解脱だけでなく、救済がクローズアップされる。修行の功徳を他者に廻すと言う「廻向(えこう)」と言う思想も、こうした他者の救済と言う発想がベースになっている。「空」の思想、「信」や「三昧」の強調、「こころ」の探求、「方便」の重視なども、大乗仏教を特徴付ける。
 紀元前後に起こったこうした大乗仏教が、中国、朝鮮半島を経て、日本に入ってくるのである(南方では、ヴェトナムに大乗仏教が伝わった)。

顕教と密教

 大乗仏教運動の後期に、密教が出現する。それに対して、それまでの仏教が顕教と呼ばれる。「顕わな教え」に対する「密かな教え」と言う意味である。釈尊は、ヒンドゥーの秘儀や呪文を排除した合理的な教えを説いたが、密教は「言葉に表現できない真理」を重大視して、自ら秘儀に参加することで直感により真理を掴むとする。そのため、釈尊が禁じたヒンドゥーや異民族の習俗なども積極的に採り入れる。ダーラニー(陀羅尼)と呼ばれる呪文、マントラ(真言)と呼ばれる神秘的な言葉を唱えたりする。マントラは、もともとバラモン教の祭儀で用いられたものである。
 密教で神秘的な儀式や祈祷が行なわれる場を「マンダラ(曼陀羅)」と呼ぶが、これは元々「円環」を意味する言葉である。後に、これは布や紙に書かれるようになり(円形だけでなく方形にも変化し)、壁に掛けられるようになり、「胎蔵界マンダラ」「金剛界マンダラ」として整備されていく。
 従来の仏教に無かった不動明王などの多くの明王、四天王(諸天)、鬼神、神像等が採り入れられて行く。これらは大日如来の仮の姿(権化)であり、大日如来の外護者(げごしゃ)とも考えられる。呪文や秘儀、ホーマ(護摩/火のこと)を焚く等の神秘的行為を通じて、宇宙の秩序や大日如来と、自ら一体化しようとする。こうして獲得された宇宙的心は「秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)」と呼ばれ、その智慧は「仏界体性智(ほっかいたしょうち)」と言われる。 他の仏教との大きな違いは、密教において祀られるのが"釈迦如来"ではなく"大日如来"だと言う点。これも、釈尊の一つの側面を強調したものと考えることもできる。日本において最初に宗派意識を持ったのは空海だと言われるが、真言宗は、他では呉音(ごおん)で読まれるお経の多くを漢音(かんおん)で読むのも、違いの一つである。

自力と他力

 ナーガルジュナ(150~250年頃)が、「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」に「難行」と「易行」の区別を書き、浄土教の曇鸞(どんらん/476~542年)が「往生論註(おうじょうろんちゅう)」で、「易行」を勧めた。「易行」は、簡潔に言うと、自分で歩くよりも船に乗っていった方が簡単だろう、と言う事である。通常、浄土教系統が他力宗と言われ、禅宗が自力宗と呼ばれる。「他力」とは、浄土系では阿弥陀如来そのものを指す。「他力」と言っても、念仏を唱えたりする事はもちろん自力である。あらゆる「行」が最初は自力から入るのと同様、他力宗も「自力」から入って「他力」を感ずるに至ると言う風にとらえられるかもしれない。

様々な宗教の影響

 ざっと、釈尊死後の仏教の伝播の流れとその変遷を見てきたが、次にそれらの仏教が、中国や朝鮮や日本に伝わる過程で各地でどのような影響を受けてきたかを見てみたい。
 特に中国では、仏教は様々な文化や宗教と混じり合っていく。これは中国が長い悠久の歴史と文化を持つ国であったから、インドから伝わった文化をそのまま受け入れるのに抵抗があった事も、要因の一つかもしれない。例えば、インドの初期仏教では"輪廻"を信じていると考えて良いと思うが、中国では死後を「鬼」と見る。インド人は「梵(ブラフマン)」と言う宇宙を想定し、中国人は「天地」を想定する。これは、死後のヴィジョンにも差となって現れる。中国では、死後は転生せず、幽冥界に「鬼」として存在すると考える。これを「供養」する事で、「氣」のつながった先祖が喜んだり救われたりすると考えるから、お墓が大事にされ、追善供養と言う習慣もできる。これらは、インドの仏教にはなかった習慣である。
 仏教は儒教の影響も多く受ける。例えば、仏壇に置いてある「位牌(いはい)」は仏教とは関係なく、もともと儒教の道具で「神主(しんしゅ)」と言う。お寺で行なわれる年忌法要(ねんきほうよう)も、仏教とは関係なく、儒教が考え出したシステムである。仏教は、道教の影響も受けている。仏教の一部の宗派で使う紫色や黄色の僧侶の衣の色は、道教の影響であると考えられる。お札とかお守りも、もともと道教の道具立ての一種である。
 仏教の用語が翻訳された時に使われたのも、主に「老子」「荘子」「易経」「中庸」「淮南子(えなんじ)」等の言葉だった。ブッダと言う言葉を最初「大覚(だいかく)」と訳したり、ボーディーと言う言葉を「道(どう)」と訳したりしているが、これらはそれぞれ「荘子」「老子」からの借用である。
 日本の神道も、そもそもは「易経」の言葉を借りながら、日本の持っていた精神風土に道教用語で形が整えられたと考えられる。日本人の宗教観の根本をなす自然観は、神道としてまとめられていった。日本においては、神道は仏教に影響を与えていく。現在、仏教の中で行なわれる「清め」や「お祓い」などは、神道の影響と言える。仏教は、本来死者に対して「穢れ(けがれ)」と言う考え方、概念は無い。

 このように、仏教はインドから伝播してくるに従い、各地で様々な文化や宗教の影響を受け変遷を重ねてきた。と言う事は、それだけ数多くの宗派が存在すると言うことでもある。日本にある宗派については、次々回に取り上げることにして、次回は仏教の「教え」について見てみたいと思う。

★本章のポイント整理

・仏教は釈尊の死後百年で根本分裂。それぞれ南方、北方へと、伝播していく。
・それから二百年で、二十もの部派に分裂。よって初期経典に一貫性を見出す事は困難。
・初期仏教は釈尊一仏のみを礼拝したが、大乗仏教運動により多くの仏や菩薩が生み出された。
・密教の儀式等は、そもそも仏教のものではなく、バラモン教等から取り入れたものである。
・お墓を大切にする、追善供養する、と言う風習はインドの初期仏教にはなく、中国で付加されたものである。
・位牌や年忌法要は、もともと儒教のもので仏教とは関係なかった。
・同様に、お札やお守りは道教のものだった。
・仏教は、死に関して本来「けがれ」の考え方が無い。「清め」「お祓い」は神道の影響と考えられる。

(2005年 5月 8日記載)

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