クリスチャンのための仏教講座
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1.釈迦の生涯・前編
日本の仏教には、様々な宗派がある。これが仏教の本質を分かり難くしている要因の一つである。キリスト教であれば、ローマ・カトリック教会であれ、プロテスタント教会であれ、聖書を神の言葉として受け入れる。キリストの教会を名乗るのであれば、使途信条を初めとする基本的な4つの世界不変信条をキリスト教の基本的な教理として受け入れる。キリスト教には、宗派の違いを超えてそういうベースがある。一方、仏教には5,000を超える経典があるとされ、これらを一生涯のうちですべて極めるのは不可能である。そこで、それぞれ各経典に重きを置いて、そこから仏教の真理に迫ろうとしたため様々な宗派が生まれた、と考えて良いだろう。そして仏教各派の教えは、一人の人物に辿り着く。当然であるが、ご存知"お釈迦様"である。
"釈迦"は、シャーカ族(※表記によってはシャーキャ族/以後はシャーカ族と表記します)の太子の名前によって、"ゴータマ・シッダッタ"(※表記によってはシッダールタ/以後はシッダッタと表記します)とも呼ばれる。もしくは、シャーキャ族の聖者(ムニ)と言う意味で、"シャーカムニ"(釈迦無牟尼/しゃかむに)とも呼ばれる。別の訳語から、"世尊(せそん)"とも言われる。"釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)"を略して、"釈尊(しゃくそん)"と言う表現も使われる。そして最もよく聞く名前が、ゴータマ・ブッダ(※ブッダ=覚者)であろうか。単に"釈迦"とか"お釈迦様"と言う場合は、その言葉はシャーカ族を指しているに過ぎないので、字義的な意味合いで考えれば上で挙げたような名称を用いるべきかもしれないが、世間一般で"お釈迦様"と言う名称で通っているので、本ページのタイトルは"釈迦の生涯"とさせていただいた。
さて名前で遠回りをしてしまったが、先にも言ったように、仏教の教えはこの釈迦の教えに辿り着く。であるから仏教を知るには、まずはこの釈迦の人生について考察することが重要である。日本人は、釈迦の生涯を断片的に知っている。シャカ族の王子だとか、菩提樹の下で悟りを開いたとか、そう言う類の話しである。これは、日本人がイエス・キリストの生涯を断片的に知っているのに似ている。クリスマスの話しとか、十字架にかかった話などを、あやふやに覚えていたりする。しかしそれだけ知っていても、イエス・キリストの教えを理解したことにはならないのと同様に、釈迦の人生を断片的に知っていたのでは釈迦の教えを理解したことにならない。そこで、このページでは釈迦の一生涯を振り返ってみよう。
当時の時代背景
釈迦の誕生の話に入る前に、彼が生まれた国や地方についての状況や風習をまず述べておこう。釈迦が生まれるシャーカ族の国は、ヒマラヤ山脈の麓(現在のネパールのタラーイ盆地)にあった。当時、ガンジス川流域には、16の大国が競い合っていたが、中でもマカダ国、ヴァンサ国、アヴァンティ国、コーサラ国は四大王国として君臨していた。シャーカ族のゴータマ・シュットダナ王は、このコーサラ大王の庇護を受ける小領主であった。シャーカ族は、北方のアーリア系人種なので、ギリシャ人のようなくっきりとした目鼻立ちをしていたようである。
この頃、インドの宗教は古代祭祀を受け継ぐバラモン教だったが、支配階級の多くのバラモンが、権力を利用して民衆をだましたり、娯楽におぼれたりしていたから、社会から批判されるようになった。当然、彼らが築いたヴェーダ文化も無視されるようになっていった。また農業生産向上により経済生活が豊かになり、交易も盛んになったことから、農村的閉鎖社会は解放されつつあり、商工業者中心の都市型社会が形成されていた。会議もバラモンの一方的な神託訓示型ではなく、長老達による民主的で自由な話し合いの方式だった。こうした自由化されていった社会の背景も、バラモン的社会階級制度が崩れて、バラモンの権威が薄れる要因だったかもしれない。
古代バラモンの宗教的な権威の失墜と共に、拠り所を見失った世の人々の道徳や倫理観も若干低下しつつあったようだ。何もかもが混沌とした時代だった。信頼を失ったバラモンに代わって、王族(クシャトリア)が民衆の上に立つようになっていった。一方で、バラモンを否定するジャイナ教のような新しい宗教も起こっていた。「霊魂は"業(人間が本来持っている欲望)"に支配されていて苦悩しているのだから、苦から脱け出すには、苦行によって過去の業を滅し、新しい業も防ぎ、魂を浄化させる。そのために、出家して修行者(※シュラマナとかビクと呼ばれる)となれ」と言う教義である。シュラマナには、「不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有」の厳しい五大戒が守らされた。こうした修行者は、托鉢乞食の生活をしながら苦行するのだが、こうした修行者を尊敬して食物を供するのも当時の一般的な風習だった。
世を離れて遊行生活を送るのは、何も特別な人々だけではなかった。この頃のインド社会は、家父長的な家族制度で、家父長の男子には重要な任務があった。一生涯重責を負うことはできないので、男の生涯は四つに区分された。学生期、家住期、林棲期、遊行期の四期である。学生期は、人格識見、職業技術を学ぶ期間。家住期は、結婚し子を養い、家長や社会の重責を負う期間。林棲期は、子が家住期に成長したのを見届け、俗世から離れて家を去り、林泉の中で静かに生活する期間。遊行期は、死期の近づきを悟ったその男が、林泉を離れて諸国を遊行し、旅の途中で死ぬのを理想とした・・・そう言う期間。そう言うわけで、当時、男が家を離れて遊行に出るのは、決して珍しいことではなかったのである(王子である釈迦が若き日に出家すれば一国の一大事だが、それが許されてしまうのもこう言う時代背景があったからに他ならない)。
こう言う時代背景と場所で、釈迦は生まれるのである。
釈迦の誕生
紀元前463年4月8日、シャーカ族のマーヤー王妃はルムビニー園と言う王家の別荘の花園内の、菩提樹の下で赤ん坊を産んだとされる(※諸説有り)。父であるゴータマ・シュットダナ王の住むカピラヴァスツの王宮に急使が走り、太子誕生が告げられた。王は、太子にシッダッタと名づけた。マーヤー王妃は、産後の出血がひどく、シッダッタを産んで七日目に死去した。シッダッタは、マーヤー王妃の妹マハー・パジャーティに育てられた。王妃が亡くなってから、雪山(ヒマラヤ)で修行していた聖者アシタ仙人が、王宮を訪ねて太子誕生のお祝いを述べた。アシタ仙人は、ボーデーサッタ(菩薩)が人間界に生まれ、それこそがシッダッタ太子だと、神々に告げられたと言う。アシタ仙人は、自分の甥のナーラカにも、将来、真理に目覚めて悟りを開いて真理の道を歩む人に合い、その人の教えを聞き、その師のもとで浄らかな行を行なえと言って、山に戻った。ちなみに、このナーラカは将来シッダッタがブッダと呼ばれるようになってから、その門弟になる。
若き日のシッダッタは、太子として小さい時から必要な教養を身に付けさせられた。太子は、非凡な才能を持っていて、あらゆる技芸に上達した。一方でシッダッタの体は弱く、きゃしゃな体つきだったと言う。多くの侍女や侍従にかしずかれ、豊かな生活を送っていた。衣服もすべて上等なものだった。王は虚弱な太子のために三つの別荘を建てさせた。冬の宮、夏の宮、雨の宮の三つで、それぞれの期間に、それぞれの宮殿で過ごした。太子は高い教養を身に付けていたので、教養の無い同年の少年達と遊ぶこともなかった。太子は、王宮での享楽的なことに喜びを感じず、亡き母のことを思い、寂しさを感ずるのだった。宮殿に閉じ込められた太子は、自ら城外に遊びに行くこともなかった。
雨の宮殿でのある日、太子は金属細工師の娘だと言う侍女と話をした。娘は父を病気で失っていたが、この時シッダッタは母を失った自分の悲しみを打ち明けると共に、「不幸は自分だけではない。人間は、誰でも不幸の影を背負っているものだと考えれば、自分の悲しみも乗り越えていける」と、娘を励ました。
雨季の宮殿では、5日に一度ぐらい饗宴が行なわれた。太子のために身分も容貌も選び抜かれた数十人の女が酒を飲み、踊り狂うのだが、男性はシッダッタ一人だった。酒がまわり始めると、女奴隷や侍女たちは淫猥になり、肉体が求める欲望を太子に向かってそのまま発散した。当時のインド社会は、経済生活の充実、論理学の発展、性愛技巧の向上を生活の三大信条としていたので、侍女達が激しい情欲を太子に直接ぶつける態度も、決して無礼ではなかった。太子自身もそうされる事が日常だったので、挑発に欲情を刺戟されて性戯を楽しんだが、一方で性の快楽に対しては客観的で、快楽の短さをみつめていた。
日頃は目覚めている時の美しい女達と、寝乱れた時の醜い女達を目にし、女の美しさとは何なのか、女性の実体はなんなのか。太子は、女達の寝姿から目を背けて青蓮華の池へ降りてみると、一人の娘が池で体を洗っていた。先の金属細工師の娘だった。その侍女は、母の病気の治癒を祈っていた。太子は、彼女に家に帰ることを許した。
釈迦の結婚
ゴータマ・シッダッタ太子が17歳になった時、太子の妃を決める為、カピラヴァスツの公会堂に長老が集まった。結果、シャーカ族に血筋の近い、王の妹の姫君、ヤショーダラー姫が候補に上がった。現代と違って、古代インド農耕社会では近親結婚が慣習化していた。姫君は、柔和で貞順でもあり、太子にふさわしいと思われた。太子も昔から姫君を知っていたので、既に仄かな恋愛感情を抱いていた。
太子とヤショーダラー姫との成婚に、カピラヴァスツの町は歓喜に沸き返った。他の国々の王も、使節を派遣したり贈り物を贈ったりして、祝意を表した。祝宴は、3日も続いた。太子が花嫁と共に新宮殿に入ったのは、結婚式を行なってから4日目のことだった。
ヤショーダラー姫が二十歳の時、妊娠した。太子は自分の母が出産によって死んだ事を思い返し、姫の妊娠がとても心配になった。ヤショーダラー姫は太子が憂い顔でいるのを見て、美貌で心柄の良い姫を選んで太子の第二夫人として与えた。太子はあまり気が進まなかったが、そのムリガジャー姫を側室とした。太子は、雨の宮殿で女達に囲まれて、淫楽と飲酒に明け暮れて退屈をしのいだ。しかし、太子はそれらを歓楽と感ずるよりも、わずらわしいと思う方が多かった。そして毎日、馬を飛ばしてヤショーダラーのもとへ戻ったりした。そんな日々の中、ムリガジャーは太子に対して、なぜいつもそのような瞑想をしているのか尋ねた。太子は、人間の死について考えていることを語った。同時に、ヤショーダラー妃の事が心配でならない事を告げた。
太子は、ある朝不吉な夢を見てヤショーダラー妃のもとへ馬を走らせた。その時妃に使えていた娘が、先の金属細工師の娘だった。娘は、以前太子に励まされて、生きていく希望が持てたことを太子に告げた。太子は、ヤショーダラー妃に自分の心配を告げたが、妃に雨の宮殿に追い返される。第二夫人は、太子が頻繁に妃のもとに帰るので嫉妬していた。そこで、太子は何故自分が妃を案ずるのか、母の死のことも合わせて話した。こうして、ムリガジャーの嫉妬は少し解けた。
シッダッタ太子が心配していたほどのこともなく、ヤショーダラー妃は安らかに、王子を産んだ。シュットダナ王は孫の王子誕生を喜び、ラーラフ王子と名づけた。ラーラフ王子誕生を機会に、シュットダナ王は、息子のシッダッタ太子に、王となる準備として副王にして、長老会議へ出席させた。時に、地域を旱魃が襲った。農民は旱魃に苦悩し、隣国コーリア国の農民と激しい水争いも起こった。この問題を話し合う会議で、太子は古人の知恵を用いてこの争いを収めた。人々は、災害を未然に防いだ太子の叡智に敬服した。シュットダナ大王は、太子に国民の信望が集まることを大層喜ばれ、まもなく王位を譲りたいと考えていた。王は(最初にも述べたが当時の慣習に従い)、隠居して林泉に住み、思索の時をすごすことになりそうだと思った。
釈迦の出家
ラーフラ王子は、日を重ねるごとに愛くるしくなった。ヤショーダラー妃の、夫と子を慈しむ愛情は一層深まった。第二夫人のムリガジャーには、妊娠の気配はなかった。この頃、太子は第三夫人ゴーピカーを娶った(正確には王統維持のため父王に与えられたと言う方が正しい)。第二夫人と第三夫人は、時に猛烈な嫉妬心を剥き出しにして太子にぶつかってきた。太子は、愛するがゆえに、自らや愛する相手を傷つけるものの実体について悩む。
太子が長老会議に出席して7年経った頃、大国のコーサラ国とマカダ国が国境紛争を起こし、戦争となった。シャーカ族も、コーサラ国のパセーナディ大王の動員命令を受けて、武装兵団をガンジス川の国境近くへ派遣した。小国の増援部隊はすべて最前線に配備され、大国の部隊の盾がわりに使われた。一ヶ月ほどの戦闘で両国は講和し、派遣部隊は本国へ引き上げた。シャーカ族の部隊は二百名ほどの小部隊だったが、死傷者は数十名に及んだ。何の為の闘いだったか、戦闘に参加した将兵にはまったく分からなかったし、シュットダナ王にしても彼らの武勇を賞し、その働きをねぎらうことしかできなかった。何の利益も無く大きな被害を受ける小国の悩みを、シッダッタ太子は身をもって体験した。
太子は、三つの宮殿を泊まり歩くことを止め、林泉の樹下に座禅して、沈思黙考する日が多くなった。シッダッタ太子は、心を苦しめる悩みを解決するには、出家して修行者になるしかないと思ったが、決心がつかず29歳となった。王宮を捨て、ラーフラ王子やヤショーダラーと別れ、孤独の旅に出たところで、恩愛の絆を断ち切ることができるだろうか。太子は、日々悶々と悩んでいた。愛するヤショーダラーと合い、太子の懐に飛び込んでくるラーフラ王子のあどけない話しに耳を傾ける。この幸福な生活の陰に、病気が、老衰が、死が、隠されている。人間の"四苦"・・・病・死・老・衰である。
ある日太子が園林へ降りると、巨樹の下に座して坐禅をしていた時、ある乞食(こつじき)のシュラマナ(※修行僧)が近づいてきた。シュラマナは、「煩悩は切って捨てるわけにはいかない、煩悩こそ出家修行の始まり」と言う。太子は、そのシュラマナとの会話を通じて、出家を決意した。
翌朝、夜明け前に、シッダッタ太子は、従者のチャンナと白馬のカンタカと共に出発した。太子は、カピラヴァスツの町を一気に駆け抜け、アヌービアの森に着いた。そこで初めて、太子はチャンナに出家の決意を話した。引き止めるチャンナを説得して、彼を白馬カンタカと共に王宮へ返した。太子は、林の中へ分け入った。途中で猟師に逢い、太子の白絹の衣と、猟師の古い衣と交換した。これで、太子も少しは苦行者らしくなった。
アヌービアの森のパールガヴァ仙人の下で7日間暮らしたが、そこにいた数人の苦行者も、太子の悩みを解決するのには何の役にも立たなかった。彼らの考えは、「来世の安楽を得るために、現世の苦行をする」と言う個人主義的なもので、シッダッタが望む「人間の苦悩を解脱(げだつ)し、多くの人の心を救」おうとする願望とはまったく異なっていた。
さてこの頃、太子の出家の報により、王宮は大騒ぎになっていた。チャンナは、太子に言われた通りに、「病・死・老・衰の苦悩を乗り越えるために苦行林に入」り、「今こそ、正法(しょうほう)を求める時と思い定めた」ことをシュットダナ王に伝えた。王は、すぐに祭祀長や政務長官らの捜索隊を出した。捜索隊は太子に追いついて太子の説得に努めたが、太子の決意は固かった。シッダッタは、「父王の慈愛はよく知っているが、地上の王でなく、人間の心を救う王となりたい」ことを告げる。「人間は、いつかは死によって別れなければならない。憂苦の生ずるのは親子間だけではない。」、そして「太子の地位にいて、五欲に従うのは望みではない。王宮で、解脱を修めるのと同時に、王の道を修めることは不可能である」と告げる。太子の心が磐石だったので、捜索隊は王宮へ戻っていった。
父王の使臣と別れたシッダッタは、マカダ国の首都、ラージャグリハ(王舎城)へ向かった。その近くには、哲学者のゴーサーらやジャイナ教の開祖マハーヴィーラが住み、彼らに対する信奉者も多く、苦行者も多かった。マカダ国のピンビサーラ大王は、シャーカ族の太子が自国を訪れている事を知り、シッダッタの下を訪れた。大王は、シッダッタにマカダ国の精鋭部隊を授けると申し出た。敵対国のコーサラ国のシャーカ族の太子を、味方に取り込もうと言う魂胆だった。シッダッタは聡明だったから、大王の政略が手に取るように分かった。シッダッタの額には、悲しげな愁いの色が浮かんだ。将来、マカダ国とコーサラ国の間に挟まって、小国のシャーカ王のシュットダナが苦しめられることになるのではないかとの気づかいからだった。シッダッタがそもそも乞食修行者になったのは、欺瞞や謀略の渦巻く俗世から脱却するためであり、どのような誘惑も彼の心を動かすことはできず、彼はピンビサーラ大王の申し出を断った。
シッダッタがラージャグリハへ来たのは、ヴェサリーに住むアーラーラ・カーラーマ仙人に訪ねるためだった。アーラーラ仙人は、三百人の弟子達と一緒に住んでいた。シッダッタは、彼に導きを願った。思索瞑想を続けたシッダッタは、ある日アーラーラの下に行き、真理について尋ねた。アーラーラは、「無所有処(むしょうしょ)」の理を述べた。無所有とは、何も所有しないと言うことである。アーラーラ・カーラーマの思想は二元論で、人間はプルシャと呼ばれる精神と、プラクリティと呼ばれる根本原質によって形成されているとする。プルシャは、常住不変で生・死・老・病の影響は受けない。プラクリティが、肉体的物質的世界を展開して、自我意識が起こる。迷いや悩みは、この自我意識と純粋精神の混同から起こる。坐禅と言う実践方法で、自我意識から解放され、純粋意識だけになる。このあらゆる心の束縛から解放された状態が、「無所有処」であると言う。
ゴータマ・シッダッタは、アーラーラから得る所はあったが、無所有処の境地が最上の真理であるとは納得できずに彼の元を去り、ウッダカ・ラーマブッダを訪ねた。ウッダカ仙人は、王族の崇敬を受けていたのでかなり傲慢になっていた。詭弁を用いて人を翻弄する態度と言葉に、シッダッタは失望して彼の下を去った。
求道苦行(ぐどうくぎょう)
「病・死・老・衰」の苦しみをどう克服するか、人間の生まれながらに担っている苦悩をどう克服するか、その思索のためにシッダッタは修行の道に入り、高徳な聖人のもとを訪れたたが、満足の行く答えは得られなかった。高徳の聖人たちがそこまで到達し得たのは厳しい苦行のためだったから、ゴータマ・シッダッタは自分の修行が甘かったと気づいた。自分も苦行し、思索し、自覚して、初めて真理が得られると考えた。シッダッタは、ガンジス川の支流ナイランジャー川の上流の山林に分け入り、坐禅に明け暮れた。彼が苦行を始めると、彼と共に苦行をするものが増え、5人の苦行者が彼と共に坐禅をするようになった。シッダッタは、人里へ托鉢(たくはつ)に行く事を止め、森の中の木の実や草や豆を採ってきて煮て食べ、餓えをしのいだ。森の中には、虎や象などの猛獣も住んでいて、決して安全ではなかった。こうした苦行を続け、6年もの月日が流れた。栄養失調で、歩行すら困難なくらいに痩せ衰えた。しかし、シッダッタには何も得るものはなかった。自分だけが安心立命する事を望んでいるわけではなく、人間苦の救済の道を求めているので、このまま餓えて死んでしまっては、つかみかけた真理が消滅してしまう・・・シッダッタは、そう思って杖にすがって村に出かけて、食を求めて托鉢した。
スジャータと言う少女が、痩せ衰えたシッダッタを見て、牛乳で煮た粥を作って、シッダッタにささげた。シッダッタは、食欲を満たし元気になって苦行林へ戻った。しかし、苦行林にいた5人の仲間は、そんなシッダッタを軽蔑した。餓えの苦しさに負けたとシッダッタを批難して、ヴァーナラシー(現在のベナレス)へ去っていった。シッダッタは、苦行林に一人残された。シッダッタは、スジャータの差し出す乳粥で栄養をとり、ナイランジャー川で身を洗い、スジャータにお礼を言い、川を遡って、ウルヴェーラーのアジャパーラー(※菩提樹)と呼ばれる大きな樹の下に、一人坐して瞑想した(※アジャパーラーの木は無花果樹で、古くからインド民衆から神々の住居として尊敬されていた)。シッダッタが修行した大樹のある所は、後年ブッダガヤーと呼ばれるようになった。
雨季が終わって、強い陽射しを避けるため、シッダッタは涼しい風が吹き通る大樹の陰に坐禅し、瞑想していると、身も心も爽やかであった。シッダッタは、自らに課した苦行の束縛から解放されたことを喜んだ。何の役にも立たぬ苦行から離れ、安定した心の状態でこそ正しい真理を把握できるはずだ、と考えた。その時、瞑想しているシッダッタを、「苦行の道を離れたのに、自分を浄いと思っている」とからかうように歌う人が近づいて来た。シッダッタは、「私の信念を破壊しようとしても無駄だ。私は多くの苦行僧以上の激烈な苦痛に堪えてきたし、これから猛烈な苦痛を受ける人でも私以上の苦痛は受けないだろう。しかし、この激しい苦行をもってしても、人智を超えた完全な、優れた知恵に達することはできない。真理を悟る道は他にあって、私は今それを探っている」と言うように答えた。しかし、多くのシュラマナ達は、シッダッタを苦行者から脱落した者として、誰も彼に近づこうとはしなかった。しかし、シッダッタはそのおかげで瞑想を邪魔されずにすむので、彼の側から苦行者が去って行くのを喜んだ。
彼は、時折大樹の陰から出て町へ出向き、食を乞うた。ウルヴェーラーの町の人々は、彼に対して畏敬の念をもって接した。彼が王族の出である噂が広がると、一層シッダッタを尊敬するようになった。この町で金融業を営んでいるナムチは、シッダッタに関心を寄せた。ナムチというのは"悪魔"と言う意味だが、彼は高利貸しの悪どい商売をしていたので、町の人々からこう呼ばれた。ふだんは欲張りでけちなこのナムチが、シッダッタに豪華な接待を申し出た。バラモンの階級では、いかにお金を持っていても商工業者は低い身分で、しかもナムチは"悪魔"などと呼ばれていたから、王族のシッダッタと縁を結び、町の人々の蔑視を見返してやりたかったのである。しかし、贅沢な料理にも美しい娘にも、シッダッタは心を動かされなかった。「あなたの親切は、ありがた迷惑だ。あなたは私の欲望を燃え立たせようとしているが、私は色や香りの誘惑からとうに脱け出しているので、そのご馳走から何も心を動かすものを感じない」と言って、ナムチの接待をことわって彼の家を出た。ナムチは、シッダッタが彼を身分の低いカースト(※階級)だから接待をこばんだのだと、ひがんだ。
ナムチには4人の娘がいたが、今度はこの娘達がシッダッタを誘惑して、彼と縁を結ぼうと画策を始めた。しかし、この娘達の誘惑の計略は3番目の娘までことごとく失敗した。三人の姉達は、この辺りでは評判の高い美女で、その三人が熱烈な愛をささげたのに、シッダッタは一顧も与えず弾き飛ばしてしまった。そして一番下の末娘のクンカパーラーの番になったが、彼女は姉達と違っていた。シッダッタは、下層階級の子供達にも分け隔てなく接して、食物を分け与えて、一緒に食べているのに、富豪の食卓には見向きもしない・・・彼女は、シッダッタがどんな男なのか知りたくて、樹陰のシッダッタのもとを訪れた。彼女は、彼に"悟り"について尋ねる。この難しい質問にも、シッダッタは答える。「生きとし生けるものはすべて、流転輪廻(るてんりんね)の生涯を未来永劫に続ける運命を持っている」こと、「生まれ、生き、やがて死ぬが、あの世でも生き苦しみ、前世の因縁によってこの世に生れ変わり、この輪廻は果てしなく続き、生れ変わるのは人間とは限らない」こと、「修行者は、おそろしい輪廻の中で生き続けている人生のまことの姿を見極める為、欲望を捨て、貪欲を去り、悩みや怒りや悲しみやおそれを忘れ、心を平成に保ち、知恵を磨き、思索して、輪廻の濁流を超え、真理の彼岸に渡ることを念願している」こと、「真理をとらえることを"さとり"と言い、正覚(しょうがく)を得るとも言う。さとった人は"ブッダ"とあがめられ、輪廻の実相を悟った聖者は生死を超越しているから、輪廻のおそろしい世界からも超越し、生れ変わると言うことはない。聖者は永劫の輪廻の過程での究極の到達点であり、これが最後の人生で、後生へ生き返ることはない」、そして「"さとり"とはブッダになることであり、修行者はそれを最終の目標としている」ことを説く。クンカパーラーはすべてを理解したわけではなかったが、自分の家族がシッダッタの修行を妨げたことを悲しんだ。シッダッタは彼女の涙を拭って、彼女が己の罪を悟ったこと、その清純な心を忘れないように語った。そして家に帰り、父や姉達に「私の言葉を伝え、世俗の欲望を追う事を忘れ、永遠の幸福と心の安静を願うように」すすめた。
シッダッタは、川辺の菩提樹の樹陰で瞑想を続けていた。真理を求めも苦悩からの解脱の道を探り、苦行の道を歩み続けて、既に7年が過ぎていた。
5月のある日の夜明け、シッダッタは、ふっと目を開きまだ暗い空を見上げると、暁の明星が輝いていた。その星の光を見つめた時、シッダッタの心に閃くものがあった。長年、思索に思索を重ねて追求してきた真理を得たのである。彼が模索し続けて来た迷妄は、闇が太陽に追い払われるようにぱっと消えた。
(後半へ続く)
★本章のポイント整理
・釈迦は、ガンジス川流域の小国シャーカ(シャカ)族の王子"ゴータマ・シッダッタ(シッダールタ)"として生まれる。
・当時のこの地域は、バラモンの影響力はまだ高かったとは言え、文化・宗教などが混沌としていた。
・釈迦は、王子として様々な快楽・享楽を受けていたが、一方で「病・死・老・衰」の苦しみに悩む。
・釈迦は、真理を得るために出家し、苦行(修行)を始める。しかし、苦行によっては、真理は得られないと結論する。
・川辺の菩提樹の下で瞑想中、釈迦の心に閃くものがあり、追求してきた真理を得る。
(2005年 3月 6日記載)
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