奨励のお話し2:神に見捨てられたイエス
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さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐ走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マタイによる福音書27章45~54節)
前回は、父なる神様が「愛する一人子」を私達のためにつかわされたことをお話ししましたが、今回はその一人子イエス・キリストの生涯について聖書から学びたいと思います。
ルカによる福音書によれば、イエスが宣教を始められたのはおよそ30歳の時であったとされています。それまでの記事は、少年時代の僅かな記述を除いて聖書にはほとんど無く、ただ両親に仕えてお暮らしになった-とだけ書かれています。イエス様は、宣教を始められる前は、大工である父ヨセフを手伝っていたと思われます。日中、太陽の下で、レンガや材木を運んだり、力仕事もしていたでしょう。聖画と言われるものや昔のハリウッド映画を見ますと、イエス・キリストがとても"色白"で"細身"の人物として描かれている事が多いようです。中には、中東と言う地域や民族を無視して、金髪で青い目と言うナンセンスな描写もあったりします。しかし、長年大工をやっているわけですから体格はガッチリとしていて、中東の強い陽射しによって肌も黒々と焼けていたかもしれません。世間が勝手にイメージしている細身でナイーブな外見のイエス様とは、ずいぶん違いませんか?
声もそうなんです。イエス様が説教するイメージは、とても静かに淡々と話す-そんなイメージを持っている方も多いのではないでしょうか?しかし、考えても下さい。数百人、時には5千人以上もの大群衆に向かって話しをするのに、日常会話のような声量ではみんなに声が聞こえるはずがありません…当時は、マイクもスピーカーも無いのですから。怒鳴るように、叫ぶように、人々に説教しない限り、みんなにメッセージが伝わる分けが無いのです。どうでしょう?体格が筋骨隆々ガッチリしていて、肌は日に焼けていて、大声で怒鳴っているイエス様-だいぶ一般の人々がイメージしているキリスト像と、違ってきたのではないでしょうか?
今回は、イエス様の外見がどうだったとか、声がどうだったとか、そう言うことをお話しするのが目的ではありません。何が言いたいかと言うと、私達は聖書以外からの情報…例えば本の記事やテレビやビデオの映像…等によって、間違ったイエス・キリスト像を勝手に作り上げてしまっているのかもしれない、と言うことです。イエス様の容姿だけではありません。イエス様の生涯については、どうでしょうか?聖書以外の情報によって、間違ったイエス・キリスト像をいだいてはいないでしょうか?
さて、イエス様が宣教を始められたのは、およそ30歳の時だと先ほど述べました。その後活動された期間は、1年とも3年とも言われますが、少なくとも十字架に架かったのは、30歳前半だと思われます。僕自身は、現在それより年上なのですが、イエス様がこの世で活躍されたのも、十字架に架けられたのも、今の私よりも若い頃だったのですね。どうも、これが今ひとつピンとこないのです。イエス様は今でも年上の人と言う感じがしていて、人生の師匠、先生と言う感じがして仕方ないのです。いつでも超然としているスーパーマンのように感じるのです。
例えば、イエス様は、荒れ野で悪魔の3つの試みを打ち破りました。たった3つの試練じゃないか、と思われるかもしれません…私達は毎日たくさんの試練に会っているよと…。しかしこの3つの試みには、人間の欲望のすべての段階が含まれています。「石をパンに変えよ」とイエス様の空腹を試すのは、人間の生存に関わる第一次欲求に関わる試み。「全部の国をあげるよ」と言う試みは、人間の社会的地位に関わる第二次欲求に関わる試み。そして「神を試せ」と言うのは、神と人との関係に関わる最大の試み。これらを、精神的にも肉体的にも限界に近い断食の絶頂期であったにも関わらず、聖書の言葉によって悪魔を打ち負かしたのです。
悪魔の試みに遭われた後、イエス様は具体的に伝道を始められました。例え話等を用いながら神の国の到来を宣べ伝え、癒しの業等の愛の奉仕で人々に仕えました。到底、普通の人間である私達にはできないことです。だからこそ、その実年齢に関係なく、イエス様を年上に感じてしまうのでしょう。
人間の力を超えた大きな力を持ち、神と共におられたイエス・キリスト。そのイエス様が、この世での人生最後の十字架上で言われた言葉が、高校生の頃、私には納得できませんでした。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」…意味は「わが神、わが神。なぜ、わたしをお見捨てになったのですか?」と言う言葉です。神の御旨(※計画)をご存知で、当然「十字架に架けられる」こともイエス様は知っていました。その上で十字架に架けられたイエス様が、何故今更「神様、どうして私を見捨てるの?」等と言う泣き言のような弱々しい言葉を言うのだろうと…。どうしても腑に落ちませんでした。ヨハネによる福音書にある「成し遂げられた」(これは旧約聖書の預言が成就したと言う意味ですが)と言う言葉、またルカによる福音書にあるように「父よ、あなたの御手にゆだねます」と言う言葉なら、信仰深い言葉として容易に納得できます。しかし「神様、どうして私を見捨てるの?」と言う言葉は、イエス様が単に自分の境遇に不平不満を言っているようで納得いかなかったのです。
この言葉は、旧約聖書の詩篇22編の言葉です。古くから「メシア受難の詩」と呼ばれていたそうです。この箇所には、こう書かれています。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いて下さらないのか。」
ここには、神との断絶による叫びが表されています。神に正しく従っている人が、神に見捨てられている。その苦しみを表しています。イエス様も、この時、正にそう言う状況でした。神と共に歩んだ正しい方であるイエス・キリストが、今正に十字架上で命を絶たれようとしている。
イエス様は、もちろん自分が人々の身代わりとなって、罪の贖い(あがない)のため十字架上で死ぬことはご存知でした。しかし、イエス様は単に形式的にそれを受け入れたわけではありません。はい、神様からつかわされました、はい、人々に神様の言葉を伝えました、はい、これから皆に代わって十字架に付きます…と、機械的に使命をまっとうされたのではありません。
友人の死には涙を流し、かたくなな弟子には怒り、罪人の改心には心から喜ぶ…そう言う風に、私達と苦楽を共にしながら人生を過ごされたのです。十字架を目前にしても、同様でした。ゲッセマネにおいて、三人の弟子達にこう言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。十字架を前にして、イエス様も弟子たちと一緒にいてほしかったのです。その後、イエス様は祈られました。
「父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
杯とは、イエス様が十字架に架かることを指し示しています。これを過ぎ去らせてくださいと言います。そう祈られるほど、イエス様の上に「全人類の罪を背負って神に裁かれる」と言う重荷が、耐え難いほどの重みでのしかかっていたのです。そして、イエス様の額から、汗が血のようにしたたり落ちたとさえ書かれています。それほどの苦しみです。
しかし、イエス様は、自分の願いではなく、神の御旨…つまり神の計画が実行されるようにと、祈りました。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心が行われますように」と。
一方、弟子達はどうだったでしょう?イエス様の思いとは裏腹に、眠っていたのです。友として最も一緒にいてほしい時に、寝ていたのです。そればかりか、兵隊達がイエス様を捕らえに来た時、みんな逃げてしまいました。そしてイエス様は一人残され、不当な裁きを受け、鞭打たれ、十字架に架けられるのです。
人々を救うためにこの世に来たのに、その人々からは「十字架に架けろ」と言われ、"友"とさえ呼んだ愛する弟子達は逃げ去ってしまいました。その孤独は、どれほどだったでしょうか。
私が以前属していたある趣味のサークルの会長さんが、酒の席でこんな事を言っていました。「会長やったって何の利益も無いし、一生懸命やったって文句言われるばかりだし、やってられないわなぁ~」こう言う感情は、給料をもらっている仕事ですら時々出てきますよね。「一生懸命やっているのに、正当に評価されない。きちんと認められない」…と。
イエス様の場合は、どうだったでしょう。何一つ悪いことをせず、良いことばかりをしたのです。けれども、人々にも愛する弟子にも、見捨てられたのです。その孤独と苦しみは、いかほどのものだったでしょうか。精神的な苦痛ばかりではありません。皮膚が張り裂けるほど何度も何度も鞭を打たれ、最も残酷な刑の一つである十字架刑に処せられたのです。そればかりか、「おまえは罪人(つみびと)の頭(かしら)として死ね!」と、神にさえ見捨てられたのです。
私達は、たった一人の異性にふられても、くよくよして人生の終わりのように感じます。長年仕えてきた会社にクビにされらたら、それこそ人生のすべてが否定されたように絶望を感じる人も多いことでしょう。しかし、この世界のすべてを造られた神から、何一つ悪いことをしていないのに、"見捨てられる苦しみ"-否、これは"恐怖"や"絶望"と言っても良いかもしれませんが、それはいかほどの苦しみでしょうか!?それは、私たちが理解しえない、耐えられない苦しみではないでしょうか。
イエス様は、十字架上で言われました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
そして、この言葉通りに、イエス・キリストは神に見捨てられ、全人類の罪人の代表として、十字架上でその命を捧げられたのです。
イエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と言われました。これは、詩篇22編からの引用だとも述べました。イエス様は、これが引用であると理解できるために、当時の公用語であったギリシャ語ではなく、わざわざヘブル語とアラム語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われました。しっかりと聞く耳を持っていた当時のユダヤ人であれば、この言葉が聖書の引用だと分かったはずです。
その詩篇22編は、その後こう続けられています。
「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。
わたしの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで救われて来た。
助けを求めて、あなたに叫び、救い出され、
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」と。
そうなのです。この箇所は、神が自分を見捨てられ、沈黙を守っている事への泣き言を表している聖句ではなく、最後には神が自分を救われて、決して裏切られることはない-そう言う信仰を表してる箇所なのです。イエス様も、この聖句を取り上げたのは、確かに今は神の御旨により、神に見捨てられ、神は沈黙しておられる-そう言う絶望的な状況に見えるが、最後には神が救い出される。決して裏切られる事はないのだ-そう言う確信があったからこそ、わざわざこの詩篇の聖句を取り上げられたのに違いないのです。究極的な状況で、神に対して絶対的な揺るぎない信頼を置いていたのです。
そして、神はその信頼を裏切らず、死んで葬られたイエス・キリストを、三日目に死人の中から甦らせられました。神は、罪人の頭として十字架上で苦しみながら死んだイエス・キリストを、"復活"させられたのです。
私達は、こうして神の御前に罪が赦され、復活と命が約束されています。未だ罪のうちに在りながらです。イエス様がかつて経験されたような究極の孤独も、恐ろしい裁きも、恐怖も絶望も体験せずに済むのです。本来なら、それらは私たち一人一人が負うべきものでした。しかしイエス・キリストが、それらの重荷を背負ってくださり、神に見放されたのです。罪の赦しは、こうして私達にもたらされたのです。
このイエス様がもたらした素晴らしい福音が、多くの人にもたらされるようにと日々祈っております。
(2005年 3月13日記載)
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