奨励のお話し1:愛する独り子をつかわす

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 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。
「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。その他に多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのこたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群集を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。   (マルコによる福音書12章1~12節)


馬小屋のイエス

 今回の箇所は、「ぶどう園と農夫」の例えです。同じ記事が、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも書かれています。聖書の有名な「例え話」の一つです。「例え話」と言うより、「寓話」と言っても良いかもしれません。

 この例え話には、ある人物が登場します。その人物は、ぶどう園を作りました。垣をめぐらし、搾り場を作り、見張りやぐらを建てます。一口に垣をめぐらす…と言っても、たいへんな重労働です。周囲数キロに渡って、「垣」を作るのです。しかし、畑を獣から守るには、「垣」は絶対に必要なのです。そして、収穫をしたぶどうを「圧搾」してぶどう果汁を貯えるための「搾り場」を作り、泥棒の侵入を防ぐ為の「見張りのやぐら」も建てました。このようなたいへんな苦労の末、この人物は「ぶどう園」を作ったのです。このぶどう園の主人となった人物は、ぶどう園を農夫たちに貸します。約2千年前の当時の小作人制度は、農園主が農夫たちに土地を貸し、収穫の一部を地代として受け取る…と言うものでした。私たちの周りには、ぶどう園はちょっと見当たらないので、アパート経営に例えてみましょう。地主さんがアパートを建てて、そこに誰かに住んでもらって、その代わりに賃貸料を受け取る…こう言った感じでしょうか。そう言う契約を、ぶどう園の主人と農夫は結ぶわけです。
 この主人は、ぶどう園を農夫に貸すと旅に出ます。ぶどうはすぐには実を着けませんが、1年、2年と経ち、5年も過ぎる頃になると立派な実を着け、収穫の時となりました。そこで旅先の主人は、契約通り収穫の分け前を受け取るため、僕を農夫の所に送りました。不作ではなくちゃんと収穫があるのですから、農夫たちが収穫の一部を払うのが当然なのですが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにして、何も持たせずに主人の所に帰しました。先程の例えで言うと、アパートの賃貸料を払わない不良住人と言ったところでしょうか。ここでしっかり確認しておきたいのは、主人は何一つ法外な請求をしていないことです。「収穫を全部よこせ」とか「収穫を約束以上によこせ」とか言っているのではなく、契約通りの「収穫の一部」を受け取ろうとしているだけです。しかし農夫たちは、主人との契約を破り、無視してしまうのです。
 そこで、主人はまた他の僕を送ったのですが、農夫はその僕の頭を殴った上、侮辱します。しかし、主人は辛抱強いようで、また別の僕を送ります。が、今度はその僕は殺されてしまうのです。普通の主人なら、とっくに堪忍袋の緒も切れるところでしょう。大勢の僕を率いて、ぶどう園の農夫たちを滅ぼしに来てもおかしくない状況です。けれども、この主人は本当に忍耐強く、またまた僕を農夫たちの所へ送ります。「今度こそ、分かってくれるだろう…」と。しかし、僕は殴られます。また、僕を送ります。今度は殺されます。こうして多くの僕たちが殴られ、殺されます。農夫達は主人との契約を守らないどころか、僕たちを殺しました…したい放題で、彼らには弁護すべき点がまったくないのです。滅ぼされて当然の行いを、続けているのです。
 さて、このぶどう園の主人には、愛する一人息子がいました。主人は、農夫たちに忍耐し続けるだけでなく、ついにこの愛する一人息子を送ろうと決心します…「
わたしの息子なら、うやまってくれるだろう」と。ここに、ぶどう園の主人の寛大な愛の心が見られます。もし親なら、自分の子どもを扮装地帯や危険地帯に、送り出そうなどとは考えないでしょう。しかし、この主人は「わたしの愛する子なら敬ってくれるだろう」と、農夫の所へ愛する一人息子を送り出したのです。ここに主人の重大な決心があります。もし、農夫たちが息子を受け入れ、過去の過ちを反省し、正しい行動に立ち返るなら、彼等を許そう…と言う決心です。こうして、主人は愛する一人息子を送り出しました。
 一方、農夫たちの方は、どうだったでしょうか?彼らは、こう結論を出しました。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。契約を破り、僕を殺した上に、さらに一人息子を殺して、主人が作ったぶどう園を自分達のものにしてしまおうと言うのです。実際にその言葉通りに、主人から遣わされた息子はとらえられ、殺され、ぶどう園の外に放り出されました。
 さて、このぶどう園の主人はどうするでしょうか?大軍を引き連れて戻って来て、この悪と不法で満ちた農夫たちを滅ぼして、ぶどう園を他の人たちに与えてしまうことでしょう。

…と言う例え話を、イエス様はされたのです。大勢の群集がそれを聴いていました。その中には、イスラエルの指導者たる祭司長や律法学者たちもいました。そしてこの例え話は、その指導者たちに向けられたものでした。「ぶどう園の主人と農夫」の例えの形を取りながら、「神とイスラエル」のことを話しているのです。神は、この世界のすべてを造られました。神は人をも造り、この地を治めるように託し、一方的な恵の契約を結ばれました。ところが、人はこの契約を破り、神の恵みに対して、悪をもって報いました。しかし、神は人を見捨てず、イスラエルの民を用いて、神の存在を世に示されました。このイスラエルは、神から一方的な恵を受け続け、神の奇跡を目の当たりにしながらも、神に逆らい、神の目に悪とされる事を行い続けたのです。神は、イスラエルが悪をなす度に、彼等が悔い改め、神に立ち帰るよう、預言者を彼らの所へ遣わされました。
 しかし、イスラエルの人々は、神が遣わした預言者に不平を言い、時には石を持って追いかけ、時には殺しもしたのです。洗礼者ヨハネもそうした一人で、ヘロデにより首をはねられました。イエス様の例え話は、正にイスラエルの長い歴史の要約、そのものだったのです。
 神に逆らい続けるそんなイスラエルに、神はその独り子イエスをお遣わしになったのです。「
わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と。こうして、イエス様は世に遣わされて、イエス様を通して天の父を世に示し、父の御心を行ったのです。しかし、イスラエルの指導者も群集も、このイエスを「十字架に付けろ!」と言って、十字架に付け、殺してしまうのです。そして、とうとう「神の国」はイスラエルから取り上げられ、異邦人たちに与えられます。悪い農夫たちからぶどう園が取り上げられ、他の農夫たちに与えられるようにです。
 イエス様は、次のように言います。聖書の詩篇(118編22、23節)の引用です。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。
隅の親石とは、日本風に言えば「大黒柱」です…大工さんが、「これは使えねえや!」と言って捨てた半端な木材が、最も重要な大黒柱になってしまった…と言うようなことで、本来は有り得ないことです。使えないと言って大工が捨てた石が、最も重要な「礎(いしずえ)」の石になったと言うのです。これは、イスラエルの人々が「こんなの救い主じゃないや」と言って、十字架にかけて殺したイエス様が、実は最も偉大な救い主であった-と言うことを表しています。
 この例え話を聞いたイスラエルのユダヤ人指導者たちは、この話が自分たちに当て付けられたことに気が付きます。そして、イエスを捕らえ、後には何とか殺そうと思うようになるのです。そして、実際に殺してしまうのです。それは、ぶどう園の主人が「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と思って送り出した一人息子が、よこしまな農夫たちによって捕らえられ、殺されてしまうのと同じ光景です。

 では、この話は当時のユダヤ人指導者たちだけに対して書かれているのかと言うと、決してそうではありません。この「ぶどう園」は、私達の住むこの世界のことであり、「農夫」は正に私達「人間」の姿そのものなのです。この世界を造られた神は、私達にこの世界を治めるように託されました。しかし、私達は神の存在を無視し、この世界をまるで自分の物であるかのように、我がもの顔で勝手気ままに振舞っているのです。人の頭脳と手で作った物を拝み、森や川や海や空を破壊し、自然の動植物から住む場所を奪い、戦争や迫害で人の命を奪う…当然、神に返すべきものを神に返すどころか、何一つ返そうとせず、逆にこの世を惨憺たるものにしてしまっているのです。
 神様は、このような私達に対して、ぶどう園の主人のように忍耐強く待っておられます。神様は、聖書の言葉を通して、私達に「悔い改めて、神に立ち返る」ことを望んでおられます。何度無視されても、何度足蹴にされても、辛抱強く待っておられます。天の父なる神は、ぶどう園の主人が農夫達に対してそうであったように、私達が滅ぼされることを望んでおりません。
 このイエス・キリストを受け入れ、父の元に立ち帰ることを、天の父なる神はずっと望んでおられるのです。神から遣わされたこの独り子イエス・キリストを通してしか、父なる神を知ることも、父の元へ行くこともできないのです。ぶどう園の主人の姿を通して示された、この忍耐強い天の父なる神の愛と、独り子イエスの愛について、知っていただきたいと思います。
 聖書には、次の言葉が書かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。

(2003年 9月21日記載)


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