Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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平和について

 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節)



 聖書は、人間と人間の社会の本質を次のように記しています。
「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」(ローマの信徒への手紙3章12~18節)。
また、イエス・キリストは次のように語っています。
「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」(マタイによる福音書24章6、7節)。
 この聖書の言葉通り、過去世界では常に何らかの紛争があり、平和であったことは一日もありませんでした。紛争だけでなく、圧政、弾圧、暴力、差別や飢餓、自然の様々な災害なども、歴史上途絶えることはありませんでした。旧約聖書の時代も、国同士が争う多くの悲惨な戦争が背景にありました。そして国々では、絶対的な権力を持つ王達が人々を支配下においていたのです。古代イスラエルの人々も、そのような厳しい時代背景の中で神に従うよう訓練されていったのです。事実、旧約聖書には、数多くの戦争の記述があります。では、神の真意は、そのような「人々が憎しみ合い、殺し合う」ことにあったのでしょうか?
 聖書では、その神の意志がイエス・キリストによってはっきりと示されます。イエス・キリストは、次のように語っています。
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」(ルカによる福音書6章27~29節)。
この言葉は、"無抵抗主義"や"犯罪を見逃す"ことを勧めているわけではありません。自己を中心としないで、他の人を本位として考え行うのが愛の本質なのだよ、と教えているのです。このイエスの言葉は、当時のイスラエルに住む人々にとって、受け入れがたいことでした。イスラエルは、過去バビロンやアッシリア、ペルシャといった大帝国の支配下に置かれ、イエスの時代はローマ帝国の支配下に置かれていました。重税と圧政に苦しむ当時の彼らにとって、異教の敵(ローマ帝国)を愛することなどまったく理解できないことでした。
 イエス・キリストは、別の機会に次のようにも言っています。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。」(ルカによる福音書12章51、52節)。
これだけ読むと、先ほどの言葉と間逆のことを言っているように聞こえます。"平和のためでなく、分裂のために来た"と言うのは、とても物騒に聞こえます。しかし、福音を伝えて本当にこの世に平和をもたらそうとしたら、必然的にこの世の悪や罪と決別しなければならない、その苦しみを乗り越えなければならないと言うことを、この言葉は伝えているのです。犯罪や暴力といった罪に満ちた世界で、波風立てずに過ごしていれば当面は無事に過ごせるかもしれませんが、それは見かけだけの一時的な安定に過ぎません。それは、真の平和ではないのです。イエスは、弟子たちにそういう状態から抜け出す"覚悟"を突きつけているのです。これらの聖書の言葉は、"真に人を愛するとはどういうことか"、"平和をもたらすための覚悟"を教えています。
 そしてまた、イエスは山上の説教の中で次のように言っています。
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)。
ここでは、「平和を"祈る"者は幸いである」とか「平和を"願う"者は幸いである」とは言っていません。「平和を"実現する"者は幸いである」と言います。部屋の中で一人で祈るだけでなく、平和のために具体的に行動することを求めているのです。平和を実現するには、困難・忍耐・努力が伴いますが、聖書は私たちに「平和を実現する」ことを求めているのです。

(2002年12月 8日記載)


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