Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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洗礼について

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの何よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2章38節)

洗礼式

 アメリカやヨーロッパの映画などを見ますと、度々"洗礼"のシーンを見かけます。牧師や神父が、水を信徒の頭に注ぐ…という光景です。実際に見たことは無くても、映画で見られた方は多いのではないでしょうか。また実際の洗礼を知らなくても、日本人はその言葉を度々用います…例えば、「血の洗礼を受ける」とか、「新入部員が特訓の洗礼を受ける」とか。いずれも、避けて通れない壁を通らなければいけない時の表現に使われる様です。しかし、"洗礼"という言葉は、本来はキリスト教の儀式の名前です。ですから、聖書に聞いて見ましょう。

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 聖書には、イエス・キリストが行うように命じた儀式("聖礼典"と呼ばれます)が、2つあります。一つは、ダヴィンチの最後の晩餐でも有名な「聖餐式」。そしてもう一つが、この「洗礼式」です。聖書には次の様に書かれています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコによる福音書1章9~11節)。「イエスは言われた『(前略)…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。…(後略)」(マタイによる福音書28章19,20節)。このように、イエスご自身が"洗礼"を受け、また洗礼を授けるように命じられています。

 イエス・キリストは、何のために洗礼を命じられているのでしょう。よく誤解されがちですが、洗礼を受けたら、突然「聖人君主」になったり「完全無欠」になるわけではありません。洗礼を受けた人は、人間としての本質は罪人のままです。罪があるのに、イエスの身代わりの十字架の死によって「罪無し」とされるのです。ですから、洗礼を受けた瞬間、何か魔法のような効果が働いて、突然信仰深くなったり、人間が変わるのではありません。「神の御前に自分の罪を自覚し、悔い改め、イエス・キリストの十字架の死による救いを受け入れて、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩む」ことを、神と教会との前に、自分の口で告白するのが洗礼です。洗礼には水が用いられますが、水に魔法のような効果があるのではありません。水によって私達の体の汚れが取り去られるように、聖霊が私達のうちに未だ残る罪を拭い去ってくださるようにと…水が用いられるのです。そして、私達の決意・告白に先行して、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネによる福音書15章16節)という…イエス様がわたし達を先に選んで下さっているのだという、その神の愛の"しるし"が洗礼なのです。洗礼を受けているということは、神様の変わることのない約束の確かさの中にいるのだ、ということです。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを置き去りにはしない」(へブル人への手紙13章5節)のです。

 キリストが私達を選び、その愛の中に入れて下さり、私達も自らの口で信仰を言い表す…つまり、"洗礼"とは"キリストと結びつくこと"なのです。

(2000年 6月23日記載)


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