Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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教会について

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソの信徒への手紙1章23節)

ウェストミンスター教会 写真はウェストミンスター教会

 「教会」と言って思い浮かぶのは、"ノートルダム寺院"や"セントポール寺院"のような、大教会の建物でしょう。日本では、ゴチック様式の大教会は、観光名所でも行かないとお目にはかかれませんが…(日本では、せいぜい「三角屋根に十字架の立っている小さな建物」でしょう)。
 そもそも教会とは、何でしょう。「学校」の本質がその建物を指すのではないのと同様、「教会」の本質もその建物自体にはありません。では、聖書の語る「教会」とは、どのようなものでしょうか?

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 教会は、プロテスタントとかローマ・カトリックとか○○派教会というように「具体的な」制度、規定、教理そして建造物を持っています。そういう個々の教会において、礼拝が行われ、キリストの福音が語られます。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:27,28)。一人一人には、種々違いがあり能力も別で欠けの多い者ですが、しかし一人一人がキリストの体なのだといいます。神は、私達の弱さを知っておられ、その交わりの場である教会を与えられ、互いの賜物を活かし合い、励まし合い、成長していくようにされたのです。そして、教師や役員を立てられたり、礼拝や生活の上での具体的な教えを私達に与えられたりして、教会を現実の世界で形成していくことができるようにしていて下さっているのです。これは、神が私達の弱さや足りなさを知っておられるからです。

 しかし、聖書はそういう具体的な制度や目に見える実体を超えた、「目に見えぬ教会」があるのだ、と言います。「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」(エフェソの信徒への手紙1:10)「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い去って下さる。」(ヨハネ黙示録21:3)とあるように、キリストを救い主と仰ぐ人々一同が、教会の頭(かしら)であるキリストの御前に集う、今は具体的に目に見えないけれども、天においてキリストの御前に一つの教会である、そういう教会があるのだといいます。
 この地上においては、弱い私達が「聖なる交わり」を持つために、キリストが頭となって教会を立てて下さっています。この世を去った後、天においては、民族も人種も関係ない、ただキリストを信ずる者のみがキリストの前に集う教会があるのです。教会とは、そういう所です。

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 という分けで、教会という所は"聖人君主"の人たちの集まりの場ではありません。むしろ、心の弱さや欠けというものに痛みを覚えている者の集まりとい言った方が、より正しいでしょう。もし、教会にまだ行ったことがなく、"教会に敷居の高さ"を感じている方がいたら、それは勘違いです。一度、教会を訪ねてみて下さい。

(1999年 8月26日記載)


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