(JOLLYBOYの信仰告白)
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信仰の告白について
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマの信徒への手紙10章9,10節)
何かを告白する場合。たとえば、誰かをとても好きになったとします。心の中で「好きだ」という感情が、とても大きくなります。そしてついには、その相手に向い「好きだ」「愛している」と言います。そのことによって、相手はあなたが「私のことを好きなんだなあ」と悟るわけです(「好きだ」という感情もないのに、「好きだ」と表現する人がいたら、異性に対してとてもだらしない人か、結婚詐欺師でしょう)。人が発言したり行動したりする場合、まず心の中にその基盤となるものが、ふつふつと湧き出ているはずです。信仰についても、同じことが言えそうです。
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聖書は、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ローマの信徒への手紙10:10)と言います。まず心で信じ、それから口で告白することが大切だと言います。また、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:3)。信仰の告白は、神の霊(聖霊)によるのだ、と教えています。
旧約聖書では、信仰者たちのこのような「信仰の告白」が随所に書かれています。神の奇跡を目の当たりにし、また神の御言葉を聞いた信仰者たちの、神に対する応答の言葉です。例えば、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)と神の唯一性を民衆の前で宣言したり、「主のほかに神はいない。神のほかに我らの岩はない」(サムエル記下22:32)と救いの拠所は神しかないことを言い表しています。
新約聖書でも同様で、イエス・キリスト自らが弟子達に対して信仰の告白を求めています。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です。』と答えた」(マタイによる福音書16:15,16)。この時ペトロは、「イエスがメシアである」というその言葉を真の意味では、正しく理解してはいませんでした。実際にペトロは、この後3度も「イエスなど知らない」と拒みます。しかし、イエス・キリストはその時、その状況において、それぞれの「信仰の告白」を求めておられるのです。
現代の私達も同様です。聖書を隅から隅まですべて知り尽してから、「信仰の告白」をするのではありません。そうであったら、誰一人「信仰の告白」などできないでしょう。聖書の言葉を聞き、その時々の「神への応答」が求められています。「イエスは神の一人子でる。ああ、その通りです。」「イエスは、死者の中から復活しました。確かに、そう信じます。」と、その時々の理解のレベルにおいての告白です。
気をつけたいのは、聖書では「言おうとしていること」と、逆に「言っていないこと」があります。しかし、聖書からまったく別の結論を導き出す人々も確かにいます。例えば、聖書は「イエスは主ではない、確かに」とは言っていません。そういうことを言う人は、「神の霊」によっていないのだと聖書は言います。私達は、「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使徒言行録17:11)というような態度が必要で、日々聖書を調べ、明らかに誤った聖書解釈に対して「それは違う」という告白も求められます。神様が、聖書を通じて何を私達に語っているのか。そして現実の生活の場で、どのような応答「信仰の告白」を求めておられるのか。「国家については?」「福祉については?」「公害については?」「戦争については?」「貧困・飢饉については?」etc.。現実の社会で生きているのですから、様々な場面に遭遇するのは避けられないのです。
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「信仰の告白」を教会全体でする場合は、「そう信じている」と表明したわけですから、当然その「信仰告白」はその教会の「信条」となり、規範になります。過去の歴史において、教会は「使徒信条」をはじめとし、いくつかの、もしくは数多くの信条を告白し、それを受け継いでいったのです。
(1999年 2月20日記載)
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