Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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祈りについて

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイによる福音書 7章7,8節)

祈りの手

 日本人は、よく祈ります。合格祈願のためと言っては湯島へ行き、交通安全祈願と言っては成田へ行き、厄除けと言っては佐野へ行きます。「合格させて下さい」「事故に遭いませんように」と、それは常に代償を求めています。求める代償の目的に応じて、祈る対象が変わっていくのです。八百万(やおよろず)と言われる多数の神の中から、自分の欲求に合った神を選出していくのです。わざわざ神社などに行かなくとも、病気やつらいことがあると、手を合わせて祈ることもあるでしょう。どういう神かは分からなくとも、取り敢えず祈ります。では、聖書は「祈り」についてどう書いているのでしょう?

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 まず、聖書は「わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)と明言し、この地や水や空にあるすべてのものに向かって「ひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(同20章5節)と言います。神以外に神はなく、祈りの対象はこの全能の神なのです。

 聖書の中でイエス・キリストは、祈る時は、一生懸命必死になって祈りなさいと言います。ある人が、真夜中の来客で突然パンが必要になり、友達の所へ行きました。しかし家族も寝静まった真夜中なら追い返されてしまうでしょう。が、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろうであろう。」(ルカによる福音書11章5~8節)と言います。そのくらい「一生懸命門をたたく」ように、「祈る」ことを神様は求めておられるのです。

 では、私たちは何を「祈る」でしょう?「お金が欲しい。」「新車が欲しい。」「地位や名声が欲しい。」と祈りますか?聖書は語ります。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイによる福音書20章9~11節)。現代でも、親は子供が「プレステが欲しい」とせがめば買い与え、成長した子供が(わがままな家庭なら)「車やバイクが欲しい」とせがめば買ってあげることさえあるでしょう。しかし天の父なる神は、「プレステ」や「車」以上の、そう決してお金では買えない、人の力では到底手に入れることのできない素晴らしいものを私たちに下さったのです。神の独り子イエス・キリストの命を私たちに下さったのです。その命によって、私たちは救われ、神の子とされたのです。そしてまた、神は聖霊なる神を私たちに送ってくださったのです。これ以上の贈り物が考えられるでしょうか?

 残念ながら人間は、目に見えないこの素晴らしい贈り物より、目に見える物の方に関心がいってしまいがちです。「もっとおいしい食べ物を」「もっときれいな服を」…と。イエス・キリストは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書6章8節)と言います。神様は、私たちに何が必要か分かっていてくださるのです。「だから、こう祈りなさい。」と、イエス様は一つのお祈りを弟子達に教えられました。

 「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

  御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

  わたしたちの負い目を許してください、わたしたちも自分に負い目をある人を赦しましたように。

  わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」 (マタイによる福音書6章9~13節)。

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 私たちが神様に祈る時に、どうか神様が、「私たちの内なるうめき声、助けを求めて叫ぶ声」に耳を傾けてくださいますように。

(1998年12月20日記載)


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