Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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信仰と洗脳について

 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソの信徒への手紙 2章8節)

脳

 毎年のように、有名人の洗脳やマインドコントロールの記事がマスコミを賑わします。特にマスコミが問題とするのは、全財産をつぎ込んだり、家族と断絶したり、時には(オウムのように)犯罪まで犯してしまう-そういう反社会的な行為に対して。そもそも「洗脳」や「マインド・コントロール」とは何でしょう?

 洗脳が世間に知れ渡るようになったのは、朝鮮戦争においてであると言われます。「北朝鮮側が捕虜に対して行った行為」が洗脳です。その方法は、①他者と隔絶し、孤立させ不安の中におく。②灯りを照らし続け、何日も眠らせない。③同じ言葉や教えを、何度も繰り返す。④恐怖をたたき込む(現代なら、「罰が当たる」とか「不幸になる」「地獄へ落ちる」等の恐怖を植え付ける)。とまあ、だいたいこんな所です。正常な脳の働きを破壊して、まともな判断を不可能にさせる行為です。

 ところが、現代の企業でもこれを緩やかに活用した「マインドコントロール」が、日常行われています。私も銀行に入社した時、露骨にマインドコントロールされました。まず1週間、缶詰状態で外界から隔絶されました。ほとんど眠る時間がなく、絶えず緊張状態におかれ、徹底的に知識を詰め込まれます。研修が終わる頃には、全員涙を流しながら活躍を誓い合い、感激して支店に散っていくのです。これは、学生気分を完全に抜けきらせる為の(そうしないと現場でやっていけないので)、必要悪的マインドコントロールであると思います。これが、悪徳セミナーや怪しい宗教の金儲けに利用されると、大問題になってくるわけです。

 一方、似たような信じる行為である「信仰」の場合は、世間から認められた行為です。マザー・テレサ等のように、その具体な活動によって世間からとても敬虔だと思われている例もあります。「信仰」と「洗脳」は、何が違うのでしょう?聖書の語る「信仰」を、覗いてみましょう。

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 聖書は、まず「宣べ伝える人」が遣わされて、それによって人々が「聞く」ことができ、聞くことによって「信じる」ことができる、と言います(ローマの信徒への手紙10章14節)。つまり、狐に取り付かれたり、霊が下ってきて、ある日突然信じるのではありません。「聖書」の神様の言葉を聞くことによって、初めて「信じる」ことの素地ができるのです。何を信ずるかというと、「神の言(神一人子であるイエス) が、救い主として私達のところに遣わされた。」ということをです。そして「彼を受け入れた者には、神の子となる資格を与える」-と聖書は語ります(ヨハネによる福音書1章1~13節)。

 こうして見ると、「聞く」「信ずる」という「私達自身」の行為が「救い」に重要なことに思われます。が、聖書の言葉は神が「知恵と啓示との霊」(聖霊)を与え、「心の目を開いて」くださって、初めて「深く知る」ことができるのです。また、私達は「信仰によって救われました」が「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物」なのだといいます(エフェソの信徒への手紙2章8節)。つまり、聖書を単なる文学や歴史書としてではなく、信仰的に悟るには聖霊の働きが必要で、また信仰も私達の力ではなく神の賜物なのです。信仰は、他人の目には「人が信じるという行為」として映りますが、本質的には「神様から与えられた一方的な恵み」なのです。

 さて、信仰について簡潔に述べたましたが、多額のお布施を要求する怪しい新興宗教や「私がキリストである」という愚かな宗教が世に増えたので、次の聖書の言葉をここに記したいと思います。「『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタイによる福音書24章23~24節)。

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 「洗脳」と「信仰」を見分ける基準は何だろうかと、考えてみました。身近な例として、自分の「体験」から。私は教会に行っていて、高校生の時洗礼を受けたのですが、それまで毎週日曜日、たった一回の礼拝へ行くだけでした。説教は、たった30分。しかも、部活で疲れていて、眠ってしまうこともしばしば。いつか、”雷鳴”が轟くように突然ひらめいて、真理を悟るのかなぁ-と思ったこともありましたが、まったく違っていました。少しづつ、聖書の話が分かっていって、いつの間にかキリストを救い主と受け入れていたのです。一方、銀行時代の研修では、一週間も缶詰にされ、緊張を強いられ、不眠で学び、まるで突然悟ったかのように涙ながらの感激をし、支店に行ってすぐに営業に行きたいとさえ思ったのです。私は前者を「信仰」、後者を「マインドコントロール」と呼んでいます。ただ、他人については「真の信仰者である」のか、「洗脳されている」のか、「思いこみにすぎない」のか、についてとやかく言うことはできません。心の奥底のことは、他人が論じることは難しいと思います。

(1998年11月25日記載)


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