Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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神の計画と私達の人生について

 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(エフェソの信徒への手紙1章4節)

シャボン玉グラフ

 数年前、「フォレスト・ガンブ」という映画を見た。クライマックスで、主人公のガンブが無くなった妻の墓の前で言う台詞がある。まず母の言葉の引用。「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで、何が入っているか分からない」。それから、彼の軍隊での上官の言葉の引用。「人には、それぞれ運命(さだめ)ってものがある」。そしてガンブは次のように続ける。「きっと両方のことが、同時に起こっているんだと思うよ」と。
 果たしてどうなのだろう。人は、不確定な明日をも知れぬ日々を送っているのか、それとも定められたレールの上を歩んでいるのか?聖書に聞いてみよう。

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 さて、時計職人がきちんと時計を作れば、後はネジを巻くだけで時計は勝手に動く。同様に、神は世界を造っておいて、後はなすがままに放っておかれたのであろうか?聖書は、次のように言う。「主の企ては、とこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」(詩編33編11節)。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソの信徒への手紙1章11節)。神は予め計画をされ、それを実行されるのです。人間の救いも天地創造の前から決められていて、それが成就されるのです(同章4節)。

 すると、どういう事なのでしょう?私達はロボットのように、誰かに操縦されて生きているのでしょうか?否、そうではないでしょう。私達は、日々色々な決断を自分の意志でしています。昼食は何を食べようか、仕事が終わったらどこに行こうか、あらゆる場面で決断しているはずです。聖書の中の人物達もそうです。自分で決断し、時には失敗し、時には破滅し、時には成長していくのです。しかし、それは神の計画であるというのです。ある人は言うでしょう。「神が計画された人生なら、神が人を裁くのは不公平だ。たとえ人が殺人を犯したとしても、それは神の計画であり、誰がその計画に逆らい得たろうか?」と。

 聖書には、そういう記述がいくつもあります。例えば、有名なユダの例。イエスの十二弟子の一人ユダが、師であるイエスを裏切り、イエスは十字架に付けられることになるのです。他の弟子たちは、まだユダの裏切りを知らない。イエスは弟子たちに言います。「人の子は聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は、不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」確かに、神の御計画通りにイエスは死ぬが、その計画をなす裏切り者については「生まれなかった方がよかった」とさえ言われるのです。

 神はすべてのことを計画されるが、具体的な行動は人の主体的な意志で成されます。救われるのも滅ぶのも、人間の主体的な決断と行為の代償であるのと同時に、救われるのも滅ぶのも、神の一方的な計画に基づくものであるといいます。有限である人間には、これらは二律背反の事柄に思え、到底理解しえない範疇に属しているように思えます。しかし、神はアダムの時代から今に至るまで、私達をロボットのようには扱わず、一人一人の自由意志と主体性を重んじていて下さるのは、古今東西の歴然とした事実です。

 私達は自分以外の人について、「あの人は、ひどい生活をしている。彼は、救われる方に予定されているのか、それとも滅ぶように決められているのだろうか?」と、余計な詮索をすべきではありません。イエスは言われます。「私の来るときまで、彼が生きていることを私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネによる福音書21章22節)。私達は、まず各自がイエスに従い、各々自分の救いを確信するだけで十分なのです。

(1998年11月 8日記載)


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