Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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国家について

「…願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにさげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしちたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」(テモテへの手紙Ⅰ 2章1~3節)

裁判(天秤)

 今、日本の政治を見ると怒りや情けなさを通り越して、とても悲しい。国家の政治形態は、時代や場所で変わっていきます。絶対王制、神権政治、立憲君主制、民主主義、共産主義…etc.。そして必ず起こる腐敗。我々は、国家や政治、行政、司法といったものを、どうとらえ、どうつき合えば良いのでしょう。

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 イスラエルは王国の分裂以降、様々な国家に支配されました。バビロン、アッシリア、ペルシャ…等。イエス・キリストと弟子たちが生きた時代のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。絶対的な権力を持つローマ皇帝とその支配に対し、当時のイスラエルの人々は圧迫感と無力感と、なにより怒りを感じていました。人気のあるイエスをねたんでいた律法学者たちは、イエスに「皇帝に税金を納めるのは律法にかなっているかどうか」という質問を浴びせました。イエスが「税金を払うな」と言えばローマ帝国への批判になるし、「税金を払え」と言えばローマを憎む民衆の怒りを買う、という学者たちの罠です。イエスは、銀貨に「誰の肖像と銘があるか」と問う。彼らは「皇帝のものです」と言うと、イエスは「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えたのです(マタイによる福音書22章15~22節)。

 イスラエルの人々の多くは、武力でローマの圧政支配から解放してくれる、ダビデ王のような救い主を待ち望んでいたのです。しかし、イエスの弟子パウロは、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべてたてられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」と言います(ローマの信徒への手紙13章1,2節)。イスラエルの人々にとって、これはある意味ショックな言葉だったかもしれません。イスラエルの神を信じてもいない異邦人のローマ帝国さえ、神に建てられた権威だと言うのです。パウロは更に続けます。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りを持って報いるのです」(同章4節)。このように、彼らの警察的権力も認めているのです。神を信じる信じないに関わらず、一般的・社会的な善悪のルールに従って彼らはその権威を行使するのです。

 しかし、彼らがもし不正を働いたり、不公正な裁きを行っている場合も、従わなければならないのでしょうか。イエス・キリストは、罪もなく捕らえられローマ帝国の総督ビラトに尋問されます。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と。すると、イエスは言います。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」神の意志(現代では聖書に書かれている言葉)に背く行いをした者の罪は、とても重いのです。

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 国家の政治形態は、時と共に移り変わります。そして日本も含めどの国の政治家も、クリスチャンは極少数です。それでも、その国の権威は神から与えられたものであり、その権威に従いなさいと聖書は教えます。その一方で、もし明らかなる悪-不正や、暴虐など-が行われている時は、声を大にして抗議しなければならないのです。今、日本国家の政治・行政そして司法さえも、千歩譲っても「正しい」と言えないどん底まで落ちています。ここでは、やはり個人の良心においても聖書に照らしてもこれは声を大にして抗議しなければならないでしょう。

(1998年 9月 7日記載)


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