(JOLLYBOYの信仰告白)
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結婚について
「それゆえ、人は父母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイによる福音書19章5,6節)
「就職」が、人生の一大転機であるのと同様に、「結婚」も一大転機です。古今東西の別なく、結婚という制度は続いてきました。科学技術の発展した現代においてさえ、「結婚」という言葉は昔と同じく、ある種「聖さ」や「未来」といったポジティブな響きをもって迎えられています。さて、聖書の「結婚観」を覗いてみましょう。
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旧約聖書の冒頭、創世記に「神はご自分にかたどって人を創造された。(中略)男と女とに創造された。」(創世記1章27節)とあります。男(アダム)が創造された時、彼はとても孤独であり、エデンのどのような動物との関わりにおいても、その孤独は癒されることはなかったのです。神はその様子を見られ、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と言われ、女(エバ)を創造されました(気をつけなければならないのは、「助ける者」の意味。この日本語だけを見ると「補助的な役割で、能力的には被補助者より劣る」ように思われがちだが、本来は「被補助者を支える為に、助けられる者と同等かそれ以上の能力を持つ者」という意味)。
創世記では次に「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)とあります。これによると、親の管理下を離れて初めて結婚関係が成立します(親のすねをかじりながらの結婚生活は、あり得ない)。結婚は、精神的にも経済的にも自立した人間が行う行為であるわけです(そういう意味では、十代でも自立していれば十分結婚関係が成り立つ。若くても、立派に家庭を形成している夫婦もいる。二十代でも三十代でもガキのような生活を送っていれば結婚関係は成り立たない。現にそういう夫婦は、現代の甘やかされた時代の中とても多い)。
その後の「二人は一体となる」という記述ですが、もはや二人は別々の人間ではなく一体なのです。生活上の経済共同体であることはもちろん、精神的な一体、肉体的な一体も指しています(聖書は夫婦関係について、プラトニックな関係を神聖視し、肉体的な関係を蔑視しているかのように思われがちだが、これは根拠のない偏見である。聖書は、性の目的は子孫の繁栄のみだとは言っていない。夫婦間の喜びの為の性もきちんと認めている)。
さて、このように一体とされたものを、人は離してはならない、と聖書は教えています。旧約聖書では、姦通(つまり不倫)の罪は、石打ちによる死刑にあたるとまで述べています。それほどまでに、結婚による夫婦の関係は大切なものと考えられているのです。結婚は、ゴールではありません。一体となった男女が、苦しいときには支え合い、うれしいときには共に喜び、成長を続けていく、そのための出発点なのです。
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国家や地域社会という大きな社会組織を支えているのは、もっとも小さな社会的関係である家庭です。国家(=もっとも大きな社会組織)の基盤である家庭(=もっとも小さな社会関係)が崩壊したら、国家さえ成り立たないのです。古代イスラエル社会なら石打ち刑に処せられてしまうような、不実な行いがまかり通る現代、国家が足下からガラガラと崩れていく、そんな音が聞こえてきませんか?
(1998年 8月10日記載)
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