(JOLLYBOYの信仰告白)
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救いと十字架について
神は、その独り子をお与えになったになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネによる福音書3章16~17節)
キリスト教会には、カトリック、プロテスタントを問わず、ほとんど十字架がかかげられています。何故でしょう。イエスが、十字架に架けられて死んだことは、多くの人が知っています(意味も分からず、単なるファッションとして首からぶら下げる人も見かけますが…)。二千年前のローマの残酷な死刑方法であった十字架が、何故現代までキリストの教会のシンボルとなっているのでしょうか。
「罪について」で述べたように、私達はみな神から遠く離れた所にいる人間です。しかし、神はこの私達をただ放っておかれ、滅びるままにされておかれたのではありません。神は、人間にはとうてい理解し難い方法で「救い」を実行されました。神であり、同時にその独り子であるイエスをこの世に送られたのです。彼は、完全に神であると同時に完全に私達と同じ人間でした。ただ一点、罪という点を除いて。イエスはその生涯において、人々に神の声を伝え、導き、病にある者を癒し、貧しい者たちと共におられました。罪なく、義なる人でした。
しかし、形式的な律法主義に凝り固まった当時のユダヤ教の指導者達は、イエスの評判が面白くありません。そしてイエスを捕らえて、殺そうと策するまでになっていきます。ついにイエスを捕らえ、当時のローマ帝国のポンテオ・ビラト総督に訴えでます。ビラトは、イエスが無実であることを見抜き、むち打った後許そうとします。が、ユダヤ指導部の猛烈な反対にあってついに、彼らの要求を受け入れる決定をしたのです。こうして無罪であると知りながらの、不正な裁きが行われたのです。
その罪なき神の子イエスが、強盗でもあるかのように、罪人(つみびと)の代表として十字架に付けられ殺されたのです。人類の代表のアダムによって全人類に「罪」が入り込んできたように、義なるイエスが私達の罪の身代わりとなって命を捧げられたことによって私達に「救い」がもたらされたのです。この十字架上の死によって、神と人類の和解がもたらされました。この神との和解によって、私達は罪人であるにも関わらず、神に義と認められ、神の子とされたのです。キリストの教会は、この十字架に架かって下さったイエス・キリストを教会の頭(かしら)、唯一の救い主としています。その象徴が、「十字架」なのです。
(1998年 4月 6日記載)
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