Jollyboyの聖書のお話
(JOLLYBOYの信仰告白)

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聖書と科学のお話

 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(テモテへの手紙Ⅱ3章16節)

原子

 「キリスト教は、科学と矛盾することを言っているから受け入れられない。特に、中世ヨーロッパの暗黒時代の無知と恐怖は、キリスト教がもたらしたもの。」という友人が、高校時代にいた。手紙までもらい、延々と中世のカトリック教会のなした誤りが述べられていた(実は中学生の時は私も、進化論と人間の創造に関して悩んでいた。当時の牧師先生の説明には納得できなかったし、今も納得していない)。果たして聖書が間違っているのか、それを解釈した人間が間違っているのか。誰もが疑問に思い、つまづく問題だと思う。現在のキリスト教においても、聖書はすべての分野においてまったく誤りがない(無誤)とする人と、聖書は誤ってはいないが信仰について書かれた書物でありその目的に従って聖書を読むべき(無謬)とする考えがある。その問いについて、考えてみたい。
 聖書の中には、現在の科学が証明していることと明らかに矛盾する記述がある。例えば、申命記14章7節「らくだ、野うさぎ、岩狸。これらは反芻(はんすう)するが…」とある。牛は、第一・第二胃に飲み込んだ食物を口へ戻して、かみなおしてまた次の第三・第四の胃へ戻す。もしくは、一度食べた草を何度も噛んで食べ直す。これを反芻という。鹿やキリンなども反芻する。しかし、うさぎは反芻しない
(※下段注釈参照)。詩編104編19節では「太陽は沈む時を知っている」とある。この他にもたくさん陽が昇ったり沈んだりする表現がある。現在なら子供でも太陽が動くのではなく、地球が回転していることを知っている。さて、これらの表現をどうとらえるべきか?これは、聖書が正確な科学情報を私達に伝えるために書かれたのではなく、生活や信仰の上で必要な事象を伝えるために書かれた書物だからなされた表現である。聖書は、うさぎや太陽の科学情報を伝えようとしているのではない。「うさぎは、口の中でいつもモグモグしてるなあ。牛みたいだなあ。」という、見た目で言っているにすぎない。「ああ、今日も昨日と同じように陽が地平線へ沈んで行くなあ。」という、目で見たそのままを表現しているにすぎない。例えば私達も日常で「陽はまた昇る」という表現はするが、「地球が回転し、再び太陽の位置が昨日と同じ場所になる」などという表現は決してしないだろう。
 もう少し突っ込んで、天地創造のことも考えてみよう。創世記の冒頭。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた『光あれ』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。このようにして、神は六日間で天地のすべてを創造され7日目に休まれたのである。しかし、現代の科学は宇宙が6日でできたとは考えない。この創世記は、数千年前に特定の時代背景の特定の文化を持つ特定の地方で書かれた。当時の人々の概念に、百億年などいうとてつもない時間の感覚はない。2000億の恒星を持つ1000億の銀河など、知る由もない。当時の人々が天地創造に関して知るには、聖書の記述で十分なのである。聖書は、「神」がいっぺんにでなく6日間で秩序だてて創造されたのだということを、読者に悟らせたいのだ。創世記は神話ではない、事実である。それを私達「人間」が分かるように書かれているのである。「今から約150億年前、無のゆらぎから10
-34(10のマイナス34乗)センチの超ミクロの宇宙が誕生した。それから10-44(10のマイナス44乗)秒後、超ミクロ宇宙は10100(10の100乗)倍に膨張した。インフレーシヨンの終了とともに、偽真空のエネルギーが熱エネルギーとして解放されビックバンが起こり、宇宙は光に満ちた。第一の日である」。さて、果たしてあなたはこんな聖書を読みたいと思うだろうか?

(1998年 2月 9日記載)


※注:2003年12月27日追記/先日、某大学の工学部の学生さんからメールをいただきました。最近の研究結果によると、ウサギも反芻するらしいとのことです。夜中(早朝)にこっそりと糞を食べる行為が、事実上反芻と同じ作業だそうです。Cさん、メールありがとうございました。

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