美術史とCGの歴史の比較

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8.現代絵画から今後の芸術活動について考える (2009年10月18日記載)

 今回で、このシリーズもいよいよ最後となった。
 19世紀から20世紀へと時は移る。第一次大戦が忍び寄りつつあるヨーロッパに不気味な陰が覆う時代の前夜、人々は束の間の繁栄と平和を楽しんでいた。この時代には、"アール・ヌーヴォー(新しい芸術)"、"ユーゲントシュティル(青春様式)"、"モダン・スタイル(近代様式)"などの多彩な芸術工芸運動が起こる。これらの運動の特徴の一つに、造形美術だけでなく様々な広い分野に渡って交流が見られたと言う事がある。
 イギリスでは、アーツ・アンド・クラフト運動。フランスのロートレックやナビ派の若者達。ベルギーの前衛芸術グループ「自由美学」の仲間達等々、多くの画家達が広範な世紀末の芸術運動に参加した。各地の"分離派"と呼ばれる芸術運動も、過去からの分離を宣言している。特に、グスタフ・クリムトを中心とするウィーン分離派は、表現主義的傾向を強く見せる画家達を生み出した。同時に、純粋な造形性を求めた建築家も生み出した。
 前章でも触れたが、19世紀に登場した鉄筋コンクリートは、頑丈さだけでなく、建築家に自由な造形性を与えた。ル・コルビュジエやアントニオ・ガウディ、フランク・ロイド・ライトらの建築家達が活躍し、新しい表現、機能美、更には建物の社会における機能までも構築していく。
 現代彫刻の分野では、ロダンの存在は大きい。彼の助手だったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの力強い生命表現を受け継いだ。一方、アリスティッド・マイヨールは、調和の取れた女性像を数多く作った。
 これらの伝統的な流れの彫刻に対し、キュビズムの彫刻は、対象を大胆に解体&再構成した。彫刻でも異才を放ったピカソの他、数多くの芸術家達が現れた。これらの造形表現は、構成主義や抽象彫刻へとつながっていく。また、シュールレアリスムや幻想的表現主義につながる彫刻家も現れた。

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 さて絵画運動だが、1905年、パリのサロン・ドートンヌ(秋季展)に集まった若い画家達-マティスやルオーら-の絵は、激しい色彩表現から「野獣の檻に入れられたようだ」と酷評された。故に、"フォーヴィスム(野獣派)"と呼ばれる。仲間には、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらがいて、後にはジョルジュ・ブラックらも加わる。彼らは印象主義やゴッホの影響を受けて、色彩を写実的役割から解放した。心が感じたままに、好きな色で自然を表現した。その後、ブラックはキュビズムへ、ドランやヴラマンクはセザンヌ的な色彩へと向かっていく。

 フォーヴィスムが誕生したその年、ドイツでも画家の内面を自由に表現しようとする運動(ドイツ表現主義)が起きた。キルヒナーらが結成した「ブリュッケ(橋)」と、フランツ・マルクやカンディンスキーらが結成した新芸術家同盟(後に「青騎士」のグループに発展)。これらの運動は、第二次大戦後の抽象表現主義や幻想的抽象表現へとつながっていく。

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 フォーヴィスムが色彩の革命なら、キュビスム(立体派)は形態と構成の革命だった。キュビスムを語るには(と言うか現代美術を語るには)、ピカソを避けて通れない。キュビスムの推進者は、ピカソと前述のブラックであった。パブロ・ピカソは、絶え間ない革新と実験を続け、青の時代、バラ色の時代を経て、黒人彫刻や古代イベリア美術に影響を受けたキュビスムの出発点に到達する。複数の視点から見た形を、一枚の絵に合成したりするのが特徴。絵画を、単なる対象の再現から自律的構成へと変えたこのキュビスム美学は、新しい絵画運動に大きな影響を与えた(しかしピカソは、新古典主義の世界へ移行をしたり、幻想イメージの制作をしたりなど、絶えず変貌を続けた)。フォーヴィスムは感情で、キュビスムは理性で、西洋絵画を自然の模倣から解放した。

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 さて、もう一方、20世紀美術に大きな位置を占めるようになった抽象主義は、特定のグループや運動から生まれたものではない。それらは、主要な都市の前衛芸術家達の間で、同時多発的に追求されたものである。これは大きな流れでは、他の表現と同様に絵画における対象のリアルな再現性の拒否と見ることができる。抽象画とは、自然の具体的な対象を描かず、画家の精神が色と形だけで構成した絵画のこと。抽象絵画と言っても、表現は様々。幾何学的なもの、抒情的なものなど様々。抽象主義は、日常の生活にまで入り込むほど様式を広げていった。

 フォービスムや抽象主義と並んで、20世紀美術の大きな流れは、(シュルレアリスムにつながつていく)幻想的絵画である。これも絵画の写実再現性を拒否しながら、(前述の2つの主義と違うのは)人間の心の中の未知の世界を探ろうとするものである。ピカソやシャガールのような特異な芸術家の活動の他、幻想主義表現もやはり多様なものになっている。"形而上派"のキリコは、時代の不気味な不安を描き出した。彼の不安が第一次世界大戦となって現実化すると、戦争を生み出す社会や文化に異議申し立てをする運動が始まり、これはあらゆる既成価値を否定する"ダダ運動"となって広まっていった。大戦後、ダダに続いて起こったのがシュルレアリスムであり、自動筆記やコラージュなどの偶然を重視した手法で理性や抑圧された無意識の解放を目指した。サルバドール・ダリやマックス・エルンストらは、それぞれの想像力を駆使して超現実を超リアルな精密描写で視覚化した。

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 大雑把に20世紀の主流な美術の流れを見たが、それ以外にも特定の運動に縛られない画家達が活躍していた。世界各地から芸術の都"パリ"にやって来て、放浪生活の中で絵画を生み出していったエコール・ド・パリの画家-モディリアニ、シャガール、藤田嗣治、パスキン、ユトリロら-は、そう言った芸術家である。アンリ・ルソーと言う、元祖"素朴派"と呼ばれる素人画家を見出したのも、彼らだった。

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 更にもう一つ挙げておきたいのが、イタリアの未来派や、ロシアの絶対主義や構成主義と言った前衛的な芸術運動。イタリアの未来派は、キュビスムの影響を受けながら、産業革命が生んだ機械の幾何学的形態やパワー、速度を賞賛し、西洋絵画に新しい規準をもたらした。超モダンな芸術を生み出したロシアの前衛芸術運動は、フランスにも波及し、アール・デコと呼ばれる装飾美術流行のきっかけを作った。
 また、技術と芸術との結びつきの優れた成果を、建築やデザインの分野から生み出したバウ・ハウスの理念も忘れてはならない。その理念は、戦後の建築に大きな影響を与えた。

ロボー作 6台のダミーロボット
6台のダミーロボット/ロボー作 (制作 by JOLLYBOY)

 第二次世界大戦は、世界の美術にとって大きな節目となった。ある芸術家は戦場へ行き、ある芸術家は亡命し、制作は思いのままにならなかった。大戦後の芸術の中心は、ヨーロッパからアメリカへ移っていった。大戦後も生きていた戦前の巨匠芸術家達が、数多くアメリカへ亡命したのもその要因の一つである。
 特に建築においては、アメリカは現代建築の実験場の様相を呈していた。機能を重視する国際様式は、各地に画一的な建物を増やした。その反省に立って、地域性や建築家の造型感覚を重んじた建築の方向へと向かうことになった。
 第二次大戦後、マティス、ブラック、ピカソ、シャガールをはじめ、数多くの巨匠が尚健在であった。彼らの作品は、多少の戦争の影響を受けているとは言うものの、戦前からの仕事の発展、そして成熟だった。一方で、人間の悲劇的様相や不気味な人間像などを描く芸術家達も現れた。伝統的な芸術の中心地のパリでは、新しい芸術家達が育っていた。

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 その後の現代美術は、あまりにも広範な広がりを持ち、あまりにも数多くのアーティストを生み出し、そして今でも増え続けている。表現の方向は多分岐化し、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ポップ・アート、ハプニング・アートやパフォーマンス・アート、ビデオ・アートやそれに続くメディア・アートを始め、数え切れないほどの多方向への分化の道を辿っている。アーティストも思いつくままに挙げるだけでも、新たな抽象表現の道を拓いたポロック、ネオ・ダダを代表するラウシェンバーグ、斬新にも有名人の写真を使ったアンディ・ウォーホル、広大な大地をアートにしてしまったウォルター・デ・マリア、新表現主義的な画家バスキア、ビデオ・アートの道を切り拓いたパイク等々…これも枚挙に暇が無い。現代のあまりに数多くのアーティストとその活動について、ここでは書ききれないし、個人的にもとてもそれらを網羅し得ないし、そもそもはっきり言って良く知らない…(苦笑)。そこで、現代美術の記述をあえてここまでとさせていただく。

 現代美術を大雑把にまとめると、だいたい次のように言えると思う。
 科学と機械万能の実利的な時代を嫌悪した芸術家達の多くは、内的な思考や精神性を表わそうとする、より思弁的な芸術へと進んでいった。写真が絶対的なリアルな世界を再現してから、芸術家の進む方向は、人間の脳が紡ぎだす思弁的な表現(=悪く言えば頭でっかちの屁理屈)へと進んでいくのは時代の必然であった。もっと大雑把に言うと、芸術作品とは"形態"ではなく"観念"…そう言う方向。これからの芸術は、「ストレートに五感で感ずる情緒的な芸術」と「頭の中で論理的に構築した形而上的な芸術」の間を、振り子のように揺れ動く時代がしばし続くのではないだろうか。

 さて、映画に目を転じてみよう。前章でも述べたように、映画はその誕生時から写真技術をベースとしている。つまり、根本的に徹頭徹尾"写実的"なのが映画なのである。その中で、映画は様々な表現方法を獲得し、技術を発展させていった。しかし、百年の長きに渡り"空間と時間軸を切り取る"と言う本質的な部分は、何も変わっていない。今後、映画に立体視(3D映像)や視聴者参加型のインタラクティブ性などが付加されたとしても、根本的な部分は変わらないだろう。映画から写実性と時間軸を切り取ったらそれは、もはや映画ではない。"別の何か"である。
 初めから写実を存在意義とした映画ではあるが、その中で様々な実験が行なわれた。幻想的な映像や抽象的な映像も試された。単一の色をずっと映しただけの映画は、その最たるものだろう。
 映画がどのような実験を繰り返しても、そして映画自体の内容が虚構そのものだとしても、映画の技術のベースは写実そのものなのである。しかし映画のクリエーター達の中にも、20世紀以降の芸術家のように、映画の写実性を拒否しようと模索を続ける人たちも数多くいる。セットや衣装で幻想的な映像を作ることができるし、映像以外のつまりは脚本や役者の演技などでも、観念的なものや形而上的なものを表現できる。

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 CGは、映画と同様に写実的である。"写実"と言うよりは、"正確"と言い換えた方が良いかもしれない。何せ、コンピューターがきっちり計算するのだ。コンピューターは、人間が指示した通りのイメージをシミュレートして返してくる。大自然をカメラで撮影した時のような、予想外の偶然性は期待できない。初めから計画して作らないと、CGIは思ったように完成しない。そもそもCGIとは、そのようなものだ。
 だが、それも時代と共に変化しつつある。コンピューターで作るにも関わらず、(まるで手で描いたかのような)CGIに見えない画像の生成を目指す道もずっと模索され続けている。もっと言うと、「自然の模倣(写実)は時代遅れであり、クリエーターが頭で構築した斬新なイメージをCGIで表わすのがクールである」と言う表現主義も台頭しつつある。映画もCGもベースは写実だが、(20世紀以降の芸術のように)思弁的な表現の方向も模索されているのである。

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 現代の美術、映画、CGについて考える…これらを総合的に語ることは、なかなか難しい。現代は、古典的主義的な写実表現から抽象的表現まで、あまりにも広い美術の表現の幅がある。大地をアートにしても良いし、ビデオをアートに使っても良い。要は、「何をどう表現し、どう描いても良い」時代なのである(笑)。
 個人的な嗜好で言えば、僕はあまり"現代美術"が得意ではない。特に抽象絵画は、その最たるものだ。その思いを強く持ったのは、とある美術館に行った祭、大きな壁全面が真っ赤に塗られていた大作の前に立った時である。僕には、単なる「赤い壁」にしか見えなかった
 また、ただ同じ色が淡々と映し出される映画に、退屈しないでいる事は僕にはできそうにない。また、(監督の感性に従って)映像編集が滅多滅多に編集された映画を見続けるのは、相当に辛かった(…逢えて具体例は挙げないけれど)。自分用に実験的に作った作品ならそれも有りだが、それを劇場映画として人に見せてお金を取るのはどうだろう???
 人間の心や精神に目を向ける事は大切な事だが、それを表現した作品を、見る側が理解できないのはどうなのだろう?それを楽しめない、共感できないと言うのは、果たして見る側の責任なのだろうか?「その絵や写真や映画を理解できないのは、おまえのレベルが低いせいだ」と言われている感じがするのだが、それはラーメン屋で「俺の指示する食べ方でラーメンを食え!」と店主に言われているようで、どうにも僕には耐えられない(笑)。

 さて過去8回に渡り、(かなり大雑把にではあるが)西洋美術史と共に映画やCGの歴史も駆け足で見てきた。技術の発展、時代背景や時代の流れ、美の規準、アーティストの生活など、様々な面から考えてみた。
 現代のクリエーターは、過去千年を振り返って、ある意味かなり難しい時代に生きているのかもしれない。

 一つに、「何をどう描いても良い」と言う事は、逆に広範な表現方法やテーマから、自分の責任でそれを選択しなければならないと言う事である。もとよりアーティストたるもの、表現したいテーマや、表現技法を自ら持っていなければ話しにならないが…。と言いつつも、19世紀以前には古典を是とするアカデミーがあり芸術家はそれに従って活動できたし、逆にそれを是としないなら反骨精神で孤高の創作を続けることもできた。今は、是認する規範ないし反抗する規範も、あまり見当たらない。大海原のど真ん中に放り出され、自分で進む方向を決めろと言われているようだ。これは、相当に怖い。選択する方向を誤ったら溺れ死ぬし、そもそもどの方向に行っても陸地に辿り着けないかもしれない。せめて、どこか遠くに陸地の見える沖合いに放り出しほしい

 もう一つは、現代の芸術の表現の幅が広がりすぎて混沌とし、自分が行なっている芸術活動が、過去の誰かの芸術活動の焼き直しに思えてしまう事、ないし時代遅れに思えてしまう事だ。もちろん個々のクリエーターは、他人と違う活動や流行に追い付く事を自らの芸術の至上命題としているわけではないだろうが、流行がコロコロと簡単に変わる中、「見当違いの創作をしているのでは?」、「誰も自分のアートに興味を持ってくれないのでは?」と言う焦りや苦悩は、正直、多くのクリエーターに始終付きまとう不安だろう。ゴッホの悩みと焦燥は、現代のアーティストにも同じく重くのしかかる。

 更にもう一つ。上記で何度か述べているように、芸術が思弁的ないし論理的に考えすぎる脳内方向にシフトしすぎていると言う事。科学の進歩以来、アーティストは写実を拒否する方向に向かい、内的な思考や精神性を最重要視する方向に舳先を向けてしまった感がある。作品を見て素直に直感的に感動や共感できる方向から、作品の前に立ち止まって「う~む…」と脳味噌を振り絞って考えねばならない方向へシフトしてしまった。そろそろバランスを取り戻す頃ではないだろうか?…まあ前述のように、振り子のように行ったり来たりと揺れ動いていくとは思うけれど。
 物理的に、物体は大きな物から小さな物へ細分化していく。コップが砕けて細かい破片になったり、岩が悠久の長い年月かけて砂になる。その逆は起こり得ない。エントロピーの法則。マクスウェルの悪魔でも介在しない限り、砕けたガラスの破片は勝手にコップには戻らない。同様にあらゆる主義主張やシステムも、時代と共にフラクタルに細分化、多岐化していく。現代社会は、そう言う時代。「巨人、大鵬、玉子焼き」で嗜好が括られた時代は昔の話しとなり、隣人や家族ですら、趣味や嗜好がバラバラの時代。誰もがカローラを買いクラウンを目指す時代ではないのだ。現代のアーティストは、そのような時代背景で創作をせねばならない。まあ、他人がどう言おうと、結局はクリエーターは最終的に「自分の作りたいものを作りたいように作る」しかないのだろうけど、誰にも評価されない(=お金が無い)のは辛いよね。
 今の時代、大多数の人々が喜んでくれる作品を作るのはなかなかに難しい。それを成し得るのは、努力を怠らなかった一部の天才アーティストか狡猾な企業集団ぐらいであろう。天才ではない多くの凡人クリエーター達は、表現の方法や扱うテーマと言った問題だけでなく、生活と言う実際的な面も含めて、なかなかシビアな時代を生きていると思う。
 これからも、多数のクリエーターが様々な作品を残していくだろうが、百年後の人々は、この混沌とした現代の芸術をどう評価するのだろうか?「その時代の美術は、総じて"混沌主義"であった」…なんてことにならないことを願う(笑)。