美術史とCGの歴史の比較

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3.古代の美術から制作資金について考える (2009年3月15日記載)

 さて今回は、古代のメソポタミアやエジプトの美術から、美術作品の資金の出所(でどころ)と言うものについて考えてみたい。

 創作活動を行なう人間にとって、お金が稼げるかどうかと言うのは、切実な大きな問題である。霞を食べて生きている分けではないので。芸術家と言うのは、過去たくさん存在したし、これからも輩出されるであろう。しかし、その作品によって"飯が食えるか"と言う問題は、クリエーターに終始付きまとう。上手い作品であっても稼げなければアマチュアであり、下手な作品に見えても稼げてしまえばプロフェッショナル。誰かがその作品を買ってくれない限り、制作者は食っていけない。
 銀行家であったセザンヌの父親が、息子セザンヌに向かって「息子よ、将来のことを考えなさい。人は天才を抱いて飢えることもある。食べていくのはお金によってなのだよ」と言ったそうだが、その心配も無理からぬことである。モネやルノワールのように、十分な名声も財産も得て晩年を過ごした画家達もいるが、一方で、ゴッホやゴーガンのように、失意の内に世を去った画家達もいる。
 誰かがその資金を出してくれない限り、芸術家達は創作活動を続ける事ができない。資金を提供してくれる人物や団体は、パトロンと呼ばれたり、現代ではスポンサーと言う呼ばれ方をしたりする。
 スポンサーは、時代によって教皇庁であったり、裕福な貴族や商人であったりした。近世に移り、海上ルートや陸上のルートが整えられて貿易によって地方都市が発達し、市民が力をつけてくると、市民が芸術家達に創作を依頼すると言うような状況も現れてきた。いずれにせよ、芸術家達が生きていくには、誰かが作品に対し資金を提供してくれる必要がある。建築であれ、絵画であれ、彫刻であれ、音楽であれ、すべて同じこと。

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 古代メソポタミヤや古代エジプトにおいては、大規模な創作活動の柱はすべて国家的事業であったと考えられる。少なくとも、現代知られている(残存している)古代の美術品の多くは、神殿や王侯を中心に据えた建造物や工芸品などである。古代都市国家では、政治的権力を得た王侯や聖職者による美術であった。つまり古代の美術は、支配者階級の美術と言う事である、
 石器時代から大河文明に至るまでの美術がどう言う経過を辿ったのかを、(手元の資料が少なく)私はよく知らない。多くの土器等が一般民衆のために作られ、そして実際に使用されただろうが、それは主に生活の必要のためであり、現代の私達が生活で使う食器類の意味合いと同じようなものであったと推測する。私達の多くは、(一部の例外はあるが)食器を芸術品として扱っているわけではなく、実用品として使用している。
 その一方で(前回の洞窟の壁画でもふれたが)、呪術的な、信仰的な意味合いを持って生み出された系譜の、日常の人々の実用とはかけ離れた美術の発展もあったであろう。古代の優れた美術は、大河都市文明時代に突如として現れたものではなく、歴史における長い技術の伝承と蓄積があって、初めて開花したものである事は間違いない。
 メソポタミヤやエジプトに、建築や工芸の技術を受け継いだ建築家や工芸家(※ここではこれらの人々を総合的に敢えて芸術家と呼びたい)達がいたのだろう。ミケランジェロやピカソと言ったような個人名は知られていない(少なくとも僕は知らない)が、膨大な知識と洗練された技術を受け継いだ偉大な芸術家達だったに違いない。彼らは王や神官に重用され、ある者は巨大な建造物の指揮を取り、ある者は王の青銅像を作り、ある者は石碑を彫った。

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 実は、それらの芸術家の立場と言うものは、数千年の時を経た中世、そして近世でも同じようなものであった。カトリック教会から依頼された絵は、カトリック教会の意向に沿うものでなければならなかった。メディチ家に買い取ってもらう絵は、メディチ家の人々に気に入ってもらわないと受け取りを拒否されてしまう。市民によって構成された組合の依頼の絵にしても同様で、組合から依頼された団体の肖像画においては、各人の肖像の描き方が気に入らないとクレームが付く。
 どの時代でも、依頼主の意向から逸れた芸術は、少なくともその時代では存在し得ない(※無名のまま没して後年評価されると言う事は有り得るが)。古代エジプトやバビロン、アッシリアでは、遥かに強力な権力者の"意向"ないし"強制"であったに違いないが。王や神官達の支配者階級の意志が絶対で、当時の芸術家達はその意志を形にしたのだろう。それが彼らの仕事であり、"食べていくため"の、否、もっと突き詰めて言うと"生き延びるため"の役割だったのだろうと思う。
(※ただし、これらの時代に個人の個人による個人のための芸術家が存在しなかった事を意味しない。ただ遺跡等の証拠によって、我々がその存在をあまり知り得ぬだけである)。

聖樹とロボット
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 では、現代の映画について考えてみよう。映画が世に誕生してから、百年以上の歳月が経過した。映画の事業方法は、当初から演劇の手法を引き継いだ。観客が観覧料金を支払い、その収益によって制作投資を回収すると言う方法である(※制作開始段階ではスポンサーや制作関係者の資金投下が必要ではある)。大衆にウケる作品ならたくさんの利益を出せるし、駄作なら誰も見ずに赤字となる。古代から中世にかけてのように、王や神官等の権力者が気に入らなければ"ボツ"と言う事は無かったが、民衆が気に入らなければ「食べていけない」と言う意味では、映画製作者は古代や中世の芸術家達と大差ないのである。自分が作りたい作品よりも、大衆が好む作品を作らねばならない。

 長らく続いた映画事業に、新たな脅威が現れる。テレビの登場である。テレビ番組の事業方法は、映画の事業方法とは違う。むしろ雑誌や新聞の事業形態に近い。雑誌や新聞は、大衆からその代金を得ていると言う意味では映画に似ているが、雑誌や新聞の収入の多くは企業等のスポンサーの広告費によって賄われている。出版社や新聞社が読者の目を気にするのは、読者に嫌われると購読者数が減るからであり、そうするとスポンサーが離れるからである。つまり、雑誌社や新聞社の目は、本質的には読者ではなくスポンサーの方を向いているのである。
 その事業をもっと極端にしたのが、テレビなのである(※ラジオも同様)。国営放送を除く民間の放送局は、視聴者から視聴代金をもらっているわけではない。スポンサー、つまり企業や団体から資金を提供してもらっているのである。テレビ局が視聴者の好みを気にするのは、視聴率が下ってスポンサーが離れるのを心配しているからであって、視聴者を大事にしているわけでは決してない。スポンサーの商品を視聴者が買い、その収益から広告費が出ると言う意味では、テレビ番組の制作費は視聴者が払っていると言えなくもないが、それは二次的な考え方であって、直接にはテレビ局はスポンサーの意向を最も気にしているのである。
 最近、劇場映画の中にもこうしたテレビ形態の作品が増えてきた。スポンサーから資金を集め、スポンサーの意向を背景に映画を作るのである。こう言った種類の映画の多くは、宗教団体の広告的映画や特殊な思想の宣伝のための映画であり、民衆の心情や好みを一切反映していないので、全体的には評判が良くない。

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 映画は主に"大衆"と言うスポンサーを、テレビは主に"企業"と言うスポンサーをバックボーンに、それぞれの制作活動を続けている。スポンサーが"民衆側か""権力側か"と言う違いはあれど、制作にはスポンサーが必要だと言う厳然たる事実が存在する。これは今も昔も同じで、17世紀にオランダで市民社会が成熟して市民が画家に絵画を注文していた一方で、同時代の隣のカトリック国では当時の権力者たる教会が画家に絵を発注していたのと同様である。

 さて、CG制作に目を転じてみよう。
 CGと言うとコンピューターを使って作られた最先端の映像と言うイメージがあるが、その事業形態としては、古代から現代まで連綿と続く創作事業の形態とまったく同じである。その作品を誰かに評価してもらい、そして買ってもらわないと「食っていけない」のである。テレビ番組のCGだったら、テレビ局ないし映像プロダクションから発注を受けなければならない。映画でも同様で、映画会社やプロダクションから発注を受けないといけない。ゲームのCGだって同じ。インターネットのCGも同じ。つまり、CG製作者にも、なんらかの形でお金を提供してくれるクライアントが必要なのである。
 そんな訳で、僕も事務所にこもってパソコンの前にじっと座っているわけではない。時間を作ってお客さんの所を回ったり、時には新規開拓営業したり、ホームページや郵便物等でのPRも欠かさない。どんな世界でも、食っていくためにはそれを買ってくれるお客様が必要だと言う、小学生でも知っている単純な"仕組み"が厳然と存在する。そんな事をしなくても食べていけるのは、ほんの一部の天下り官僚ぐらいのものである。

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 こう考えると、数千年前の古代から現代に至るまで、(技術の発展の差はあれど)芸術家の活動と言うのは、「食っていく」と言う意味においては大同小異と思わされる。いつの時代も、芸術家が食べていくのはたいへんなんだなぁ~と。自分が作りたい作品と、求められる作品が一致していたら、こんなに幸せな事は無い。しかし、実際はそんな事はほとんど無いわけで、自分の作りたい作品と、絶大な力を持った権力者の要求との狭間で、色々と精神的な葛藤がある。でも、生きていくためには、権力者の意向に沿った作品を作らざるを得ない。
 一方で、自分の芸術を信じて真っ直ぐに進み、晩年、極貧の中で亡くなったり、世間の無評価や批判に耐えられずに孤独の内に自ら命を断った芸術家達も、けっこう多いわけで…。
 いつの時代も、創作活動で食っていく事はたいへんだなぁ~と思わされる。まあ、作った作品が権力者の逆鱗に触れて"打ち首!"とならないだけでも、私達の世代は幸せな時代に生まれたかなぁとは思いますけどね。