6.聖書の語る悪魔・Ⅳ
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V.悪魔に対する信者の信仰生活

 これまで、悪魔という言葉から始めて、悪魔の誕生・権納・性質・行為を見てきて、それに対する神の主権と完全な勝利を述べました。では、イエス・キリストがすでに悪魔に勝利されているなら、今の私たちはまったく悪魔に対して心配しなくてよいのでしょうか。否、むしろ逆のことを聖書は語っています。
 使徒ペトロは、ペトロの手紙Iの5章8節で「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜し回っています。」と言った後で、次の9節で「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」と言っています。また、パウロもエヘェソの信徒への手紙6章12章で「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手とするものなのです。」と語り、前の11節で「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と言い、後の13節でも「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と繰り返しています。同じエフェソの4章27節では、「悪魔にすきを与えてはなりません。」と言っています。敵である悪魔は、今まで見てきたように、獰猛でかつ狡猾で、陰謀と欺きに長け、人間の心理の弱点に付け込み、神の言葉さえ転用して戦う輩であるので、私たちは決して怠慢や無気力に流されることなく、返って雄々しく勇気を奮い起こし、しっかり立ってこの敵に立ち向かわねばならない、と聖書は語るのです。
 この私たちの敵は決して少ないものではなく、一人の人に7つもの霊が取りついたり、時には一人に一軍団(レギオン)が取りつくことさえあるほどの大群です(ヨハネの黙示録の12章4節の比喩は、サタンが天使の3分の1も堕落させたことを指すという解釈もできる)。このような強大な敵に、私たちは対抗して行かなければならないのです(実際にこの悪魔の働きに、聖書の人物達がしばしば負ける姿を聖書の中に見いだします。先に見たダビデの例しかり、ペテロの例しかり)。どんな神の武具を身につけ、どう対抗すべきでしょうか。
 まず、テモテヘの手紙Ⅱの3章16節に、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」とあるように、私たちに与えられている「聖書」を読み、理解することです。ウェストミンスター信仰告白では、次のように言っています。「(前略)その真理を一層よく保存し広げるためと、教会を肉の腐敗と悪魔や世の敵意に対して一層確立し慰めるために、その同じ真理を全文書に委ねる事をよしとされた。(後略)」と(第1章1節)。その重要さは、主イエス御自身が具体的に示されております。サタンがイエスを試みた時、主イエスはすべて聖書(イエスの時代は旧約の聖書の事を指す)の言葉を用いてサタンを排斥しておられます。もちろん、聖書の正しい理解と信仰がなければなりません。サタンでさえ神の言葉を利用していますが、自分の都合のよいように使っており、主イエスの用い方とは別次元です。使徒言行録の19章13節に、ユダヤ人の祈祷師たちが登場します。彼らは「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる。」と言いますが、悪霊は彼らに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返して、飛び掛かって祈祷師たちをひどい目に遭わせました。この祈祷師は、イエスに対する正しい理解・認識がなく、イエスに対する信仰も当然ありません。同じように、聖書を単に文学書や歴史書と知っているというのでは、本当に聖書を理解した事にはならずこの祈祷師だちと同じようなものです。聖霊に証言され聖書を神の言葉であると確信し(ヨハネ16:13,14,Ⅰコリント2:10-12他)、聖霊に照らされ「イエスを証し」する聖書を正しく理解させられる(Ⅰコリント2:9-12他)必要があります。
 同じように大切なことは、信仰生活の中心「祈り」です。マルコによる福音書9章14節(マタイ17:14~,ルカ9:37~)から、少年についた悪霊を弟子たちが追い出せない記事が書かれています。イエスは「なんと信仰のない時代なのか。」と嘆かれ、言葉でその霊に命令し少年から追い出します。弟子たちが「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。弟子たちは、確かに悪霊を追い出す権威を与えられていたのですが(マルコ6:7,マタイ10:8,ルカ9:1)、真に力を持っておられるのは神御自身です。この神の力は、神に信頼して祈る者を通して働くのです。
 祈りは、主イエス御自身が弟子たちに教えられています(ルカ1:2~,マタイ6:5~)。その主の祈りの中で、特にこの件に関する個所は、「み国を来たら社たまえ」と「われらを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」の2ケ所でしょう。とても短い文章ですが、ここには深い意味がこめられています。「私たちを御言葉と聖霊によって支配し(マタイ6:33他)、教会を増し加え(マタイ10:36~他)、神に逆らう力やサタンとその国を滅ぼし(ローマ16 :20他)、あなたのみ国の完成をなし遂げて下さい(Ⅱペトロ3:13他)」、そして「私たちはとても弱いですから(ヨハネ15:5他)、敵や悪魔(Iペトロ5:8他)やこの世(ヨハネ15:19他)や私たちの肉(ガラテヤ5:17他)の攻めから助けて、聖霊の力によって強め抵抗させ勝利を得させてください(Ⅰテサロニケ5:23他)」と祈るのです。
 「み国を来たらせたまえ」については、聖書から繙いて教会は次のようにその内容をまとめています。「それは、われわれをみことばとみ霊によって支配し、われわれが、時とともに、ますますあなたに、従う者とならせて下さい。あなたの教会を、保ち、増し、悪魔のわざと、あなたに逆らって起こり立つ、すべての力、あなたの聖きみことばに反してなされる、すべての悪しき企てを、滅ぼして下さい。かくて、あなたが、すべてのすべてとなる、み国の完成を、きたらせて下さい、ということであります。」(ハイデルベルク信問答問123)。「問268 第二の祈りの中のみ国を、あなたはどう理解しますか。答 それはおもに二つの点にあります。すなわち、神に属する者を導き、聖霊をもって支配すること、反対に、神の支配に服することを好まない悪人たちを、深き淵に落し困惑させることであります。これは神のみ力に抵抗しうるいかなる力も存在しないことを明らかに示すためであります。」「問269 どうしてこのみ国を、来たらせ給えとあなたは祈るのですか。答 それは主が一日一日と信徒の数を増し加えてくださるように、また彼らの上にその恵みを日毎に増大させて充ち満つるまでにしてくださるように、また神の真理をますます明らかに示してくださるように、神の義をあらわしその義によって、サタンとその国のもろもろのくらやみが砕かれ、また一切の不義が打ち倒され取り除かれるようにということであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)。
 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」については、次のように述べています。「われわれは、もともと、まことに弱く、片時も保ち得ず、加うるに、 われわれの恐ろしい敵、悪魔、この世、および、われわれ自身の肉は、われわれを、攻めることを止めませんから、願わくは、われわれを助け、あなたの聖きみ霊の力によって強め、 彼らに対して、激しく手向かい、この霊の戦いにおいて、破れることなく、ついに、われわれが完全に、勝利を、おさめることができるように、して下さい、ということであります。 」(ハイデルベルク信仰問答問127)。「問289 その祈りの要点は何ですか。 答 神がわれわれを悪に蹟くままに放置し、またわれわれが悪魔やわれわれと戦う肉にある悪しき貪りの情に、打ち負かされるのをお許しにならないということ、反対に、われわれを神のみ手をもって支え、またわれわれを護り導くために神の保護の下におくことによって、抵抗する力をわれわれにお与えくださるようにということであります。」「問290 それはどのようにして行われますか。 答 神がそのみ霊によってわれわれを支配し、われわれに善を愛し悪を憎み、神の義を求め、罪より逃れさせてくださる時であります。なぜならば、聖霊の力によって、われわれは悪魔や罪や肉に打ち勝つからであります。」「問291 そのことはすべての人に必要ですか。 答 はい。なぜならば、悪魔はほえる獅子のように、絶えずわれわれを見張っており、食い裂こうと待ち構えております。またわれわれは、もし神がわれわれを強めて彼らに打ち勝たせてくださらないならば、たちまち負けてしまうほど、ひどく弱くもろいからであります。」「問292 試みという意味はどんな意味ですか。答 悪魔がわれわれをおそうために用いるもろもろの策略やごまかしであります。それはわれわれの生来の感覚はあざむかれたり、己れをあざむいたりしやすく、また、われわれの意志は善よりもむしろ悪にふける傾向があるからであります。」「問293 しかし、何ゆえあなたは神に向かって、決して悪へお導きにならないように求めるのですか。それは悪魔独特の仕事なのですから。 答 神はその憐れみによって彼の信徒たちを護り、悪魔が彼らをそそのかすことも、罪が彼らを征服することもお許しになりません。そのように、神が罰しようとされる人々に対しては、単に彼らをすてて、その恵みを取り上げるばかりでなく、彼らを悪魔共にわたして、その暴虐にまかせ、彼らを盲目にし、のろわれるべき感覚の中に彼らをおとされるのであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)。
 私たちは、神の言葉である聖書によって訓練され正され、祈りによってすべての源である神にまったき信頼を寄せ、導きと守りを願うのです。
 しかし、それでもなおその祈りにもあるように私たちはまったく弱く、サタンとこの世の誘惑に負け、またひどい罪に陥ります。何度か見てきた、 ペトロのイエス否認を見ても明らかです。イザヤ書64章5節で、「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり、わたしたちの悪は、風のようにわたしたちを運び去った。」とあり、神の民であるイスラエルが、神の愛を放れ著しい悪を行ったことが述べられています。その結果、神の怒りをかって同じ8節にあるように、「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。」のであります。神が御自身の民を、サタンの試みと心の腐敗に任せられそして一時的な審判をもたらすのは、民に腐敗や不誠実を悟らせ、謙遜にさせ、神に信頼を置くようさせるためであります。第一コリントの11章32節に、「裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。」と書いてあります。ヨハネの黙示録3章19節には、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に務めよ。悔い改めよ。」とあります。ヘブライ書12章5、6節では、「わが子よ主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら主は愛する者を鍛え、子として受け人れる者を皆、鞭打たれるからである。」と書いています。一方、ローマ書1章28節で「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いにわたされ、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」と言われる、神に背くかたくなな不敬虔な悪人はどうでしょうか。第ニテサロニケの2章9から12節に、「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」とあります。
 神を信じる者にとっては、サタンの試みや肉の誘惑は、一時的審判をもたらし神に立ち返らせます。しかし神に背く者には、サタンの力のなすに任せ、その行き着く先は滅びです。ウェストミンスター信仰告白は、そのことを次のように述べています。神の民については「最も賢い正しい恵みある神は、しばしば、ご自身の子らをしばらくの間、いろいろな試みと自らの心の腐敗とに任せておられる。それは、前に犯した罪に対して彼らを懲らしめるため、あるいは腐敗のかくれた力と心の不誠実さとを悟らせて、謙そんならしめるためであり、彼らの援助のために、より近く絶えず神に寄りすがるように導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他いろいろな正しいきよい目的のためである。」(第5章の5)と言い、又「(前略)彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り、しばらくの間そのうちにとどまることがある。このため彼らは、神の不興をひきおこし、神の聖霊を悲しませ、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり、心をかたくなにし、良心を傷つけ、他の人々をつまずかせ、また自分に一時的な審判をもたらす。」(第 17章の3)と言っています。一方、神に背く民については「正しい審判者として神が、今日までの罪のゆえに盲目にし、かたくなにされたところの悪い不敬けんな人々について言えば、彼らの理解を明らかにし、彼らの心に働いていたはずの神の恵みを、彼らに賜らぬばかりか、時には、すでに持っている賜物さえも取りあげ、彼らの腐敗によって罪の機会となるような対象に彼らをさらされる。その上、彼らを自分自身の肉の欲、世の誘惑、サタンの力のなすに任され、それによって、神が他の者らの心を和らげるために用いられる手段によってさえも、彼らは自らをかたくなにすることさえ起こってくる。」(第5章の5)と述べています。

 イエス・キリストが、御自身を献げられたのは「わたしたちをあらゆる不法から賄い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるため」(テトス2:14)であり、「わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから賄い出してくださ」った(ガラテヤ3:13)のです。またキリストは、「わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この世の悪からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった。」(ガラテヤ1:13)のであり、「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるため」(使徒言行録26:18)にキリストは遣わされたのです。父なる神は「わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださ」った(コロサイ1:13)のです。そして「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、神の恵みの下にいる」(ローマ6:14)のであり、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)と言われます。しかし私たちはたいへん弱く、(見てきたように)時としてサタンやこの世の誘惑に負けて罪を犯します。私たちが永遠の滅びに至らないように、神は一時的審判をくだされ神に立ち返らせられ、私たちを鍛練なさいます。私たちは、「悪魔にすきを与え」ない(エフェソ4:27)ため新しい生き方をし、「サタンにつけ込まれない」よう(Ⅱコリント2:11)に人を赦し愛して、悪魔を私たちから逃げださせるため「神に服従し、悪魔に反抗」(ヤコブ4:7)し、「信仰にしっかりと踏みとどまって、悪魔に抵抗」(ペトロ5:9)しなければなりません。そのために「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を楯として取りなさい。」(エフェソ6:14~16)と言われ、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:17~18)と言われます。神の御言葉である聖書を読み、真理を悟り救いを確信しその信仰に固く立ち、聖書に聞き従い聖書が教え戒める正しい信仰生活を送れるように、祈りによってすべてのものの源である神に願い求めます。そして「悪い者に打ち勝っ」て(Iヨハネ2:13)、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタイ24:30)時、忠実で賢い僕(マタイ24:45)、五人の賢いおとめ(マタイ25:2)、財産をよく管理した良い僕(マタイ25:21,23)として見られ、天地創造の時から用意されている国(マタイ25:34)、神が設計者であり建設者である堅固に土台を持つ都(ヘブライ11:10)、更にまさった故郷(同16節)、新しいエルサレム(ヨハネ黙示録21:2)、イエスが用意された住む場所である父の家(ヨハネ14:2)に迎えられる(同3節)ことを心から待ち望みます。


P.S.全六回を終えて、最後に一言

 この「悪魔」をテーマに取り上げようと思い立ち、書き上げるまで約半年間もかかってしまった。聖書の内容だけでなく、どうしても心理学的な見地からの悪魔と、歴史の視点から中世暗黒時代の魔女狩りがいかにして起こったのかを見ておきたくて、色々と周り道をしてしまった。悪魔は存在しないとする現代科学の中にあって、心理学はどう悪魔をとらえているのかを簡単にではあるが探ってみた。心理学のみならず、物理学や化学を含む現代科学は、心霊現象や悪霊憑きの多くを科学的に解明できると考えている。一方で、聖書は悪魔を単に観念としてでなく、実際に存在する霊的存在として描き出している。
 私自身、は「心霊現象は科学でほぼ説明できる」と言う論理を受け入れる一方で、尚聖書の語るところの悪魔の実在も確信している。(※ちなみにここで書かれた事はすべて個人的な考えで、クリスチャンすべてが必ずしも同じ考えと言う分けではないかもしれません…念のため。ついでに申しておきますが、僕は霊的な存在の悪魔や悪霊を見たことはありませんし、悪霊憑きの人を見たことも、悪霊祓いに遭遇したこともありません・・・俗悪なテレビ番組を除いて)。

 魔女狩りにおいては、その社会で起こったステレオタイプが、いかに無実(宗教的な無罪のことでなく、この世の法律上の無罪のこと)な者を魔女に仕立てていったかというプロセスを見た。悪魔的な力(※私は霊の世界に住んでいるわけではないので、悪魔そのものの働きとは断定できないので悪魔"的"と表現させていただきます)は、魔女とされた人々より、むしろ魔女を作り上げていった権力者側の人々に働いていたのではないかとさえ思える。歴史を振り返ると、同じような例があまりに多いのに驚く。現代の日本においても、権力者側の腐敗は目に余り、その利権が護られることに重点を置いた論議・立法・行政が繰り返され、それに対抗する力が反社会的―(中世的な言い方を借りると)つまり魔女的と見なされる・・・。憲法の解釈や改正、政治改革などの問題、君が代・日の丸・教科書に代表される教育等の問題、靖国参拝などの宗教問題等々、時代が進むにつれてそれらに抗う行為は反社会的と見なされる傾向が強まっていると思う。アメリカでは、イラク戦争反対を主張する少女が集会場から連れ出され、日本ではイラクで人質になった人々(彼らはイラクの人々のために働こうとした勇気のある人々だ)とその家族が"自己責任"の言葉の下に一斉批難を浴びる。いつ国家権力や権力を握る人々に抗する人々が、「魔女」的なレッテルを貼られてもおかしくない時代である。悪魔"的"力は、この世では神に似た強大な力を持ち、皆、そう言う絶大な力を持つ権力と組みすることを願う。その言う時代が到来した時、その流れに逆らうにはたいへんな困難を伴うだろう(中世暗黒時代では一度魔女の嫌疑がかかると、その容疑を払拭することは99%不可能だった)。

 さて、この6回に渡った考察は、そもそも悪質な霊感商法や俗悪なオカルトないし新興宗教の被害が世の中にあまりに多いので、心理学と歴史と聖書と言う異なった3つの視点から、「悪魔・悪霊」を考察してきた。人の弱い心理を巧みに利用し「あなたの不幸は、悪霊が取り付いているからだ」と脅し、高額なお祓い量を請求する、お札を初め特定の商品を買わせる・・・そう言った被害は、今も後を絶たない。テレビで、頻繁に"悪霊祓いなる行為"が視聴率稼ぎに行なわれるのを見て、マス・メディアのあり方に疑問を持っている方も多いのではないだろうか。(※テレビで派手に悪霊祓いをしていた芸人風僧侶が、別の件で逮捕された事はまだ記憶に新しいでしょう)。私自身は(クリスチャンとして聖書の言葉を受け入れているので)、悪魔が霊的存在として実在すると考えているが、それでも中世の暗黒時代に実際に魔女はいなかったと確信しているのと同様に、現代マスメディアで取り上げられる"悪霊憑き"や"心霊現象とされる事象"のほぼすべてが、心理学的・科学的に解明できると確信している。この世から、人の弱みに付け込んだ霊感商法や、カルト宗教の被害が無くなることを願っています。

(2005年 6月19日記載)