5.聖書の語る悪魔・Ⅲ
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Ⅳ.神の主権と主イエス・キリストの勝利

 駆け足で、悪魔の誕生、その権威、性質・行為を見て来ましたが、どうしても脱しきれない疑問が頭をもたげてきます。悪魔の誕生のところで、歴史上悪魔の一元説と二元説が出てきたことを述べました。この説に当てはめるとすると、悪魔もやはり神の創造下の輩であり一元説でしょう。では、悪魔が神から独立した存在であるとする二元説が、何故登場してきたかといいますと、善の存在である神が、悪魔のような存在を創造し活動を許しておかれるわけがない、悪が神から生じることはあり得ないから―という事が根拠となっています。かのアウグスティヌスも、(まだはっきりとした信仰を持つ前の思いとして)彼の著書「告白」の第7巻4章で次のように述べています。「だれがわたしを造ったのであるか。それはただよい方であるだけでなく、善そのものであられる、わたしの神ではないか。それでは、どうしてわたしは悪を欲して善を欲しないのであるか。わたしが当然の罰を蒙らねばならなぬのは、どうしてであるか。わたしはまったく、わたしの甘美な神によって造られたのに、だれがこのようなものをわたしの中に移して、苦難の若木を植えたのであるか。これを為すものが悪魔であるならば、その悪魔というものはどこから来たのであるか。悪魔それ自身も、かれの邪悪な意志のためによい天使から悪魔にされたものであるなら、かれを悪魔にした邪悪な意志は、どこからかれのうちに来たのであるか。天使はすべて最善の創造主によって造られたというのに」と。パウロ後のパウロ、ルター前のルターと呼ばれている彼でさえ、その信仰がまだ育っていない時にはそのような疑問が沸いて出てきたのです。聖書を開かず信仰を持たぬ人は、その悪魔の存在について(また人が罪を持つ存在になったことについても)神を非難している姿をよく見かけます。
 聖書は、このことについてどう語っているでしょうか。ヤコブの手紙1章13節では、「誘惑に遭うとき、だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」と記し、同17節では「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」と言っています。神は誘惑(※注:試練と誘惑は区別されている)されず、良い贈り物をされる方と語っています。ヨハネの手紙Iの1章5節では、「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」と言って、神がまったき善であることを言い表しています。この事を、ウェストミンスター信仰告白では、次のように告白しています。「神は、(中略)起こりくることはなにごとであれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって神が罪の作者とならず、また彼造物の意志に暴力がくわえられることなく、(中略)定められたのである」(第3章の1)と。
 一方で、聖書は「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45章7節)とも述べています(ここでの「災い」は、信者への試練としての災いや悪者へ対する罰としての災いの他、広義の意味での「災い」全般を言っていると考えられます)。ここでは、神がすべてのことを創造されると述べています。例えば、イエスは必ず苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを弟子たちに述べ(マタイ16 : 21他)、弟子のうちのひとり(※ユダのこと)が悪魔であることを早くから弟子に伝えています(ヨハネ6:71) 。そして最後の晩餐において、イエスは最後の愛を訴えてパンをユダに与えましたが、サタンが彼に入ると「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われ(ヨハネ13:27)、ユダは旧約の預言通り主を裏切ります(詩篇41:9)。しかしイエスは、ユダについて「だが、人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」と言われています(マタイ26 : 24他)。神のご計画である旧約の預言通りの裏切りが起こったのですが、一方でその裏切り者の行為には何ら弁解の余地はありません。聖書の各所で見られるこの論理。神の聖なるご計画、それに対する悪魔等の行為や災い(突き詰めて言うと、"神の不変の計画"と"自由意志・偶然性"の関係)―それが、神の御下でどのようにつながっているのか、真に不思議です。
 しかし、神が語っていないことを詮索したり、勝手に解釈したりすべきではないでしょう。「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。」(申会記29:28)のであり、「ことを隠すのは神の誉れ」(箴言25:2)なのです。隠されている事を詮索するよりも、啓示された聖書が私たちに積極的に語っている内容に目を向けたいと思います。

 さて、今まで悪魔の為してきた卑しむべき数々の行為をみてきました。 悪魔が自分の高慢な意志で勝手に神に逆らい、私たちに敵対し、私たちを欺くのであれば、私たちには非常に有害で恐ろしいことです。しかし、聖書は神の御許しがなければ、悪魔はその意志を実行に移せないことを述べています。ヨブの例でも、主がサタンに「それでは彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」(ヨブ記1:12)と言われた時、サタンはヨブの持ち物を奪ってもヨブには手を出すことができなかったのです。 再び「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」(ヨブ記2:6)と神が言われた時、 サタンはヨブの命には手を出せませんでした。また新約聖書においてイエスが「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、 小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き人れられた。」(ルカ22:31)と言っておられます。神に許しを得て後、 サタンは弟子たちに手を出しているのです。教会は、次のように告白しています。「神は彼らを聖霊をもってはお導きになりませんけれども、神が彼らに許された限度でなければ、 彼らは活動することができないように、神はその手綱を握っておられるのであります。その上に、たとえ彼らの意図や決意に反してでも 、みこころを実行するように彼らを強制されるのであります。」と(ジュネーブ教会信仰問答・問28の答)。
 神は、悪魔の手綱を握っておられるだけでなく、悪魔に対する完全な勝利をも約束されています。そのことは創世記3章15節で、神が蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」 と言われてから、ずっと首尾一貫しています。そして時至って、主イエス・キリストがこの世に来られたのです。 悪魔はイエスを付け狙い、荒野で誘惑しますが、まったく失敗し、時が来るまでイエスを一時離れ去ります。その後イエスは宣教を始め、 病人をいやし、悪霊に取りつかれた者を、イエスは言葉で追い出しました(マタイ8:16、28、9:32、12:22、15:21、マルコ1:21、39、5:1、7:25、9:17、ルカ4:33、40、8:27、9:38、11:14、他)。 レギオンと呼ばれる悪霊の軍団を追い出し、マグダラのマリアの7つの霊も追い出します。イエスの御言葉による力を、ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力」 (マタイ12:24他)によると言いますが、イエスは「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立っていくだろうか。 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」(マタイ24:26,27他)と言われ、 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28他)と言われます。 (悪霊たちも神の裁きを感じはじめ、裁きの日の刑罰を予測してか)「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」 (マタイ8:29他)と、悪霊たちは言っています。また、霊的存在である悪霊たちは、イエスが神の子と知っているので騒ぎ立てます(マルコ1:17他)。 イエスの言葉の力は、神の霊の力であり、神の国はすでに到来しているのです。ヨハネIの3章8節では、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」 と言っています。イエスは、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」(ルカ10:18)と言われ、悪魔側の敗北を述べています。そして時が満ち、 イエスは無罪であるとされながらも、十字架に掛けられたのです。しかし、主は3日目に復活されたのです。悪魔は、誘惑によって果たしえなかったことを、 イエスを十字架に掛けることで達しようとしたのですが、実際は逆で悪魔は"イエスのかかとを打った"に過ぎず、悪魔がその"頭を砕かれた"のでした。 教会は告白します。「(前略)そこにおいて彼は、へびの頭を砕く女のすえ、世の初めからほふられて、きのうもきょうもいつまでも変わることのない小羊として啓示され、 表象されていた。」(ウエストミンスター信仰告白第9章7節)。「(前略)主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、 悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいます(後略)」(ハイデルベルク信仰問答・問1の答)。「主が、(中略)貴き御血潮をもって、罪から、また悪魔の一切の力から、 御自分のものとするために、救いあがなってくださった。」(同問答・問34の答)。「三目目によみがえらたことであります。このことにおいて、彼は死と罪との勝利者として 御自らを表わされました。なぜならば、そのよみがえりによって、彼は死を亡ぼし、悪魔の鎖を断ち切って、その力をことごとく打ち砕かれたからであります。」 (ジュネーブ教会信仰問答・問73の答)。
 主は復活後、 40日間弟子たちに現れました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」(ルカ24:49)と言われ聖霊を送ってくださる約束をされ、「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)とも言われました。そして、天に上げられ神の右の座に着かれ(マルコ16 : 19)、聖霊を送って下さいます(使徒言行録2:1他)。詩篇110編で、「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』。」と言われるように、栄光を受けられた主イエスは、あらゆる敵に勝利を得ています。そして、決められた裁きの日(使徒言行録17:31)には大いなる力と栄光を帯びて来られ(ルカ21:28)、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し(テサロニケI・4:16)、生き残った者が空中で主と出会います(同4:17)。一方閉じ込められていた罪を犯した天使(ペトロⅡの2:4、ユダ6)や神に背く者たちは、永遠の破滅という刑罰を受け(テサロニケⅡ・1:8)、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火(マタイ25:41)に投げ込まれます。教会は、それらのことを次のように信仰告白します。「問51・われらのかしらなるキリストのこの栄光は、どんな益をもたらすのですか。 答・第一には、主は、そのえだであるわれわれのうちに、聖霊によって、天の賜物を注がれます。次に、そのみ力をもってあらゆる敵から、われわれを守り保って下さいます。」(ハイデルベルク信仰問答)。 「問42・彼の王国はわれわれにどんな益がありますか。 答・それは、彼によって良心の自由を与えられ、また義しさと潔さとの中に生きるため、彼の霊のもろもろの富にみたされ、われわれが魂の敵である悪魔や罪や肉や世に勝つ力をえることであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)。「神は、イエス・キリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた。すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている。その日には背教したみ使いたちがさばかれるだけでなく、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受けるためにキリストの法廷に立つ。」(ウェストミンスター信仰告白33章の1)。

(2005年 5月22日記載)