4.聖書の語る悪魔・Ⅱ
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Ⅲ.悪魔の権能とその行為

 堕落した天使である悪魔は、この地上でどのような立場にあるのでしょうか。聖書の中には、それを窺い知ることができる箇所があります。ヨハネ黙示録9章 11節では「底なしの淵の使い」と記し、エフェソ6章12節では「暗闇の世界の支配者」と書いています。また、同じエフェソ2章2節では「かの空中に勢力を持つ者」と述べています。また、ヨハネ福音書14章30節ではイエス御自身が、悪魔を「世の支配者」と言っています。第ニコリント4章4節では、「この世の神」とさえ言っています。悪魔は、霊的には「暗闇の世界の支配者」で、現実には私たちの住む「この世の神」とさえ言われているのです。ヨハネ黙示録13章18節の、獣の数字「6 6 6」 については当時のローマ皇帝を指すなどの様々な解釈があるようですが、私自身は聖書世界の完全数7に一つ足りない数が三つ並んでいることから、神("父・子・聖霊"の三つの完全な神格と、"預言者・祭司・王"の三つの働きが完全であるイエスキリスト。それぞれが7・7・7の完全性)に及ばないが、神に似た力を持つ悪魔のことを指しているのだという風に解釈しています。悪魔にはそれほどの力があり、少なくともこの世の人間にはそれが「神」に見えてしまうほどの、圧倒的な力を持つ存在として描かれているのだと思います。

 次に、悪魔の性質とその具体的行為を見てみます。すでに、聖書の初め創世記の第3章に、蛇(蛇に定冠詞がついた特別な存在=サタン)が登場します。ここでの蛇は、まったく校措で欺きに長けた存在として描かれています。神は人に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」と言われました。ところが蛇は、「園のどの木から食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言い換えて、まるで神が理不尽にすべての木を禁じられているかのような言い回しをします。そして「決して死ぬことはない」と断定して、神の言葉をまったく引っ繰り返します。まるで、蛇が神であるかのように力強く断定しきったのです。その上で、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言い放ち、(おそらくはかつて天使であった悪魔が神の極みまで上ろうとしたように)人に対し―どうだ神になってみたいだろう?神になりなさいよ―と、誘惑します。蛇は神が与えられた禁止命令が専横的に負わされた"重荷"として、人の自由に対する理由なき"制限"として表現して、人が神のように善悪を知って神のようにならないように神はこの命令を与えたのだと言い、この違反こそが神と等しくなれる道だ、と言い放っています。心理学的にみますと、人の欲求の順序はまず―第1次欲求―自分の生存に必要なもの(食料、水など)を求め、次に―第2次欲求―自分の社会での立場を求めるそうです。エデンでは、アダムもエバも食べることや飲むことに何の苦労もないことは、創世記の記事から明らかです。社会的な地位も、神からこの世を治めるように託されており、言わば世界の支配の頂点に立っていました。生存も社会の地位も確保されている人に残された欲求は、はっきり言えば自らが「神」になることです。神の一方的な恵みの契約もこの点にかかっていて、人の自由意志を重んじた上で神への従順を試されています。しかし蛇は、その人の心理をうまくくすぐりながら、神から背かせようとしているのです。結果として、人はその誘惑に負けました。悪魔は、神の言葉と人の心理をうまく利用して欺くという、非常に校措なことを平然とやってのけているのです。教会はこの事を、歴史において次のように告白しています。「…(前略)それなのに、人間は、悪魔にそそのかされて、身勝手な不従順のゆえに神が人間にお与え下さった賜物を奪われてしまったのであります。」(ハイデルベルグ信仰問答問9答)。「わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされ、禁断の木の実を食べて罪を犯した。(後略)」(ウェストミンスター信仰告白第6章1節)。
 この狡猾な誘惑は、イエス・キリスト御自身が体験されています。マタイ福音書4章とルカ福音書4章に詳しく記されている、"荒野での誘惑"です。イエスは、荒野において 40日という非常に長い断食をします。昼夜において極端に温度差のある荒野、40日におよぶ断食。通常であれば、幻覚や幻聴に苛まされ、肉体及び精神に異常をきたすことさえある極限の状況です(第2章の幻覚を参照のこと)。精神的にも体力的にも最も弱まっている極限の状況下で誘惑にあっているという点で、エデンの満ち足りた中での誘惑の例とは、過酷さの点では比較になりません。空腹が絶頂に達したところで、悪魔が現れます。悪魔は、ここでもまた人間の心理を巧みに利用します。まず、第1次欲求である生命維持に必要な肉の糧を得るように誘います。そして次に二次欲求、ここでは特に神との関係を試すよう誘惑します。また、悪魔の誘惑の仕方も巧妙です。悪魔は、イエスが神であると知っていて、「神の子なら」と言い(これは「あなたは神の子なのだから」という断定の条件文)、その力で石をパンに変えるよう誘います。イエスは悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれてここへきたのです―そしてサタンの狙いは、イエスに罪を犯させ救い主の条件を奪うことだったのでしょう。この状況から、苦しまねばならない人の弱さから、神の子の力でもって早く抜け出せば楽になれるんだぞ、肉の欲を満たせ!―と言っているように、私には聞こえます。イエスは申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉を引用して、これを退けます(もちろん、これはイエスに石をパンに変える力がなかったということを意味しません)。悪魔もこれに対抗し、詩篇91編11節の「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」を引用して、(おそらくは幻であろう所の)神殿の屋根から飛び下りるよう言います。しかし悪魔は、神の御心に反して利用するため「道のどこにおいても」という句を省いて、都合よく引用しています。イエスは、申会記6章16節の「あなたたちの神、主をためしてはならない」を引用しこれを退けます。そして悪魔は(これもおそらく幻である)世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑するのです(マタイとルカでは、この誘惑の順序が逆なので注意)。悪魔には、「世の支配者」「この世の神」という呼び名に代表されるように、この世の支配者としてこのような申し出を行う権利がありましたので、まるっきり嘘というわけでもなく悪魔のしたたかさが感じられます。するとイエスは、「退け、サタン」と言い、申命記6章13節に代表される「あなたの神、主をおそれ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」から御言葉を引用します。3つの誘惑は、いずれも罪のために死の苦しみを味わうことなく栄光の座に着く道を、悪魔が示そうとするものであったと思いますが、悪魔はこの試みに失敗し退きます。イエス・キリストは、その極限状況下で、神の御言葉や人間心理の仕組みを利用したあらゆる悪魔の試みに勝ち、罪なき申し分のない救い主であることを実証したのです。

 悪魔は、狡猾で欺きに長けた存在であることを見ましたが、また神の御前で「告発(中傷)」する存在としても描かれています。ヨハネ黙示録12章10節には、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」と書かれています。その告発で、最も典型的なのは「ヨブ記」の例です。サタン(そもそもこの名の元の意味が告訴や中傷する者、敵対者の普通名詞であった―が後に悪魔の名となったと言うことである)は、世界を行き巡り、人の罪を探し出しては神に訴えます。ここで、神御自身が「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言われたヨブを、利益があるから神を敬うのだと中傷し、神の許しを得てヨブの持ち物をことごとく討ちます。しかし、ヨブは罪を犯しません。再びサタンは、神が「地上には彼ほどの者はいまい」といわれているヨブを、彼の肉体を討てば神を呪うはずだとしつこく中傷します。そして、サタンはヨブに悪性の皮膚病をもたらします。ヨブは、ここでも(言葉をもっては)罪を犯しません。ヨブは最終的に苦難のただ中での信仰告白を現実のこととして体験し、悔い改めを表明します。神は前にも増してヨブを祝福されました。

 聖書は、また悪魔が「悪い者(マタイ13:19)で、敵(Iペトロ5:8)であり、最初から人殺し(ヨハネ8:44)であり、死をつかさどる者(ヘブライ2 :14)である」と述べています。聖書の中には、悪霊たちが人に取り付き(入り込み)、様々な災いをもたらしている記事があります。ヨハネ福音書9章に、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちがイエスに「ラビ(※先生と言うような意味)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪をおかしたからですか。」と尋ねる記事があることからも、体の不幸は罪の報いであるという伝統的な考えがありました。列王記下5章27節のゲハジの皮膚病や、歴代誌下21章12節以下に示されているヨラムにもたらされる内蔵の病など、この典型的な例です(ミカ書6章13節も参照)。しかし、イエスは弟子たちの質問に「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えており、神の主権的意志が述べられています。その一方で、悪魔によりもたらされた病や災いも確かに存在しました。悪霊にとりつかれて口の利けない人(マタイ9 :32、12:22、マルコ9:14、ルカ11:14)や、悪霊による癇癪(マタイ17:14、マルコ9:14)、病の霊による腰の彎曲(ルカ3:10)、悪霊にとりつかたことによる苦しみ(マタイ14:21、マルコ7:24)等を初め、多くの悪霊による病・障害がありました。その最もひどい例は、ガリラヤ湖の対岸のゲラサ人の地方での男の例です(ルカ8:26、マタイ8:28、マルコ5:1。余談だが、マタイではガダラ人の地方とされている。ともにデカポリス地方で、同じ岸辺の当時の一般的な名称か〔尚ゲラサの町とガダラの町自体は50km離れている〕。また、悪霊に取りつかれた人を、マタイでは複数〔2名〕、マルコとルカでは、単数〔1名〕となっている。これはおそらく、福音書記者の対象認識の差による)。この男は、レギオン(ローマ軍隊の6千人の一軍団=つまり多数だと言う事)と呼ばれる多くの悪霊に取りつかれ、墓場を住処とし、ひどく狂暴で誰も道を通れないほどであった。足枷や鎖で縛っても、それらを引きちぎってしまうほど強かった。彼は、他人に対し搾猛なだけでなく、自分自身を石で打ち叩いている。悪魔に見人られた人は、他人を傷つけるだけでなく、その行き着く先は自己破壊・破滅であるようです。悪魔は、初めから「人殺し」なのです。

 悪魔や悪霊は、人に死や病をもたらそうとするだけでなく、霊的にも神から離れさせようとします。イエス御自身がいくつかのたとえ話の中で、その事を語っています。毒麦のたとえの説明では 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、‥・(後略)」(マタイ13:37)と、言っています。種を蒔く人のたとえでは「(前略)だれでも御国の言葉を間いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。(後略)」(マタイ13:18,マルコ4:13,ルカ8:11)と説明しています。このように、悪魔は人の中に蒔かれたものを奪い取る悪い者で、神から離れる毒麦を蒔く敵なのです。
 こういった敵である悪魔は、神の民や教会にさえ忍び寄ってくるのです。そして度々、その働きが成功してしまうのです。神の御下にあったアダムとエバの例は、その代表的なものですが、その他にも悪魔の働きとはっきりわかる聖書の記事があります。歴代誌上の21章1節からの事例です。「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」とあります。これは、サタンがダビデに"神"より"民の力"に拠り頼むよう誘っているのです。一方、ダビデにも相継ぐ戦争にも勝利を治め、力を誇示したいという思いがなかったとは言えないと思います。軍の指令官ヨアブは、人口調査が、神に反逆する行為である事を直観的に悟っていましたが、ダビデはこの命令を実施させ、神の怒りをおおいに招き、イスラエルに災いがもたらされます。悪魔は、イスラエルの王ダビデにさえ校滑に働きかけるのです。
 イエスの12弟子にさえも、悪魔は入り込みます。過越祭が近づいていた時、イスカリオテのユダの中にサタンが人ります(ルカ 22:3)。入り込む前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(ヨハネ13:2)のです。その後、ユダは祭司長たちの所へ行き、イエスを引き渡す相談をします(マタイ26:14、マルコ14:10、ルカ2:4)。荒野での誘惑に失敗したサタンは、今度は力づくでイエスを狙います。そして最後の食事の時、イエスが最後の愛を示してパンをユダに与え、ユダがそのパンを受け取った時サタンが彼の中へ人ったのです(ヨハネ13:27)。初代教会においてもアナニアとサッピラの夫婦が、サタンに心を奪われています(使徒言行録5:1)。
 ユダの場合は、明確に主を裏切るという意志が働いおり、アナニアとサッピラの場合にも共謀としてごまかすというはっきりした意志が働いていましたが、 サタンの働きは尚も巧妙です。マルコ福音書9章31節で、イエスは死と復活を予告されました。その時、ペトロはイエスを諌めます。恐らく、彼はイエスが死ぬなどというのはとんでもない、という彼にしてみれば正義心・忠義心のようなものだったのでしょう。しかし、イエスはペトロを叱って言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。人間的に良かれと思っても、それが救い主として十字架につく事を邪魔するのはまさにサタンの仕業です。またイエスは、オリーブ山で最後の祈りをされる前に弟子たちに言っています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたをふるいにかけることを神に願って聞き人れられた。(後略)」。イエスが共にいた12弟子たちでさえ、悪魔の試みに合い、また篩(ふるい)にかけられているのです。
 歴史において、教会は次のように告白しています。「(前略)悪魔はほえる獅子のように、 絶えずわれわれを見張っており、食い裂こうと待ち構えております。(後略)」(ジュネーブ教会信仰問答・問292の答え)。「世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りをまぬがれない。そしてある教会は、キリストの教会でなくサタンの会堂になるほどに堕落した。(後略)。」(ウェストミンスター信仰告白第25章5節)。

 悪魔の働きは他にも多く聖書に記されていますが、彼らは敵で悪者で人殺しで捧猛で、 かつ狡猾で欺きに長け、しかも地上では権威を持ち神に人間を告発・中傷する輩として描き出されています。カルヴァンは、 キリスト教綱要の第1編14章において言います。「(前略)ある人たちは、聖書には、悪魔の堕落、またその原因、方式、時期、および形について、多くの個所にわたって、秩序立って、はっきりと説明がされていない、とつぶやいている。けれども、これらのことは、われわれに何のかかわりもないのであるから、全然触れないでおくか、ごく軽く触れておくほうがよいだろう。なぜなら、実を結ばぬ空虚な物語をして、好奇心を満足させることは、聖霊にふさわしくないからである。(中略)そういうわけでわれわれは、悪魔についての余計なことにかかずらうことなく、その性質については、短く次のように述べるだけで満足しよう。『悪魔は最初の創造においては神の使いであったが、堕落することによって自ら破滅し、他のものを破滅させるための器となった』と。(後略)。」。

(2005年 4月24日記載)