2.歴史から見た中世魔女裁判の考察
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 悪魔について語る時、どうしても避けて通れないのが「魔女狩り」問題である。この問題には、少なからずカトリック教会が関わっており、その歴史的重要性を学んでおく必要がある。

I.魔女とは何か

 魔女とは何か、何だったのか、正確に理解している人がどれほどいるであろう。魔女は存在しなかったし、魔女迫害の荒れ狂った時代にも"自称魔女"すらもほとんどいなかった。魔女は、特定の歴史的連関の中で作られた犠牲者だった言える。
 当時、魔女とはどんな意味をもっていたのか。まず魔法使いということについてみる。魔法使いとは"男女"あわせた魔女(?)の総称で、儀式的、あるいは象徴的な手続きによって他の人間の運命を変えることができる人のことである。15世紀初め以降、魔法使いの意味は狭められ、魔法使いのもつ力の源泉が悪魔にあることを示すようになった。当時、時代の不幸はすべて悪魔のせいと考えられていた。そこで畑を不毛にし、人間や動物を死に至らしめ、嵐を起こし、伝染病を蔓延させるのは、魔法使いなのだということになっていくのである。狭義の魔法使いである魔女は、「サタンのフィアンセ」と呼ばれており、真夜中サバト(魔女の夜宴)に出掛け、最初にサタンを崇めキリスト教とあべこべの礼拝を行い、サタンと饗宴を行い、恐るべき夜の舞踏と相淫を行うのである・・・とされた。

Ⅱ.魔女狩りの原形

 西欧中世において魔女狩り以前に、すでに魔女狩りの特質を備える原形的な歴史的事象が存在した。話は12世紀に逆上る。
 かつて12世紀から13世紀にかけてヨーロッパに「テンプル騎士団」という結社があった。聖地への巡礼者を保護することを誓約した戦士達の結社であり、ソロモン神殿(テンプル)のあった砦の近くに本部を構えたのでこの名がついた。戦う修道僧たちの軍旗は、黒と白(白はキリスト者への友愛を、黒はその敵に対する捧猛さをあらわしていた)であった。彼らは、勇気と献身で知られ、みるまに無視できない勢力になった。
 1128年のトロワ会議の直後にフランス国王が土地を「騎士団」に寄進したのをかわきりに世俗的発展が始まり、たちまち西ヨーロッパ中に黒と白の旗がひるがえった。そして「テンプル修道院」は、安全の模範とみなされ公の通貨の保管所として使われ始め、パリの「 テンプル騎士団本部」はヨーロッパの金融の中心となっていった。パリ・テンプルの会計局長は、王室の全収入の受取人兼管理人として任命された。
 しかしこの「テンプル」は、壊滅させられていくのである。それに際して、いかなる「悪魔祓い」が出現したのか見てみよう。
 1285年、フィリップ4世がフランス国王を継承した。「美男王」と称され、「ローマ皇帝を兼ね、聖地エルサレムを奪回し、諸国家同盟を支配し地上に永遠の平和を実現する」という誇大妄想のような野望に憑かれていた。しかしあいつぐ戦争で、国庫は破産に瀕していた。フランス国内のカトリック教会に十分の 一税を課し、金持ちからは金銀の容器を供出させた。1306年7月、国内のユダヤ人を逮捕し、財産を没収した。翌年lang=EN-US>10月には、フランス各地のテンプル騎士団員を逮捕し、ただちに審問にかけた。逮捕の命令書は9月につくられていた。命令書は、その言葉の一つ一つが「人間性を抹殺する」ための見本のようなもので、続いてテンプル騎士団の犯罪について書かれている。内容は、彼らがキリストを三度否定し、十字架に三度唾を吐きかけ、男色を犯し…以下、騎士団が犯した犯罪が書き記されている(悪魔は「もっともそれらしくない部分」においてさえ、探し求められ発見されるのである)。騎士団員は、これに基づき審問された。逮捕に先立ち、すでに自白用マニュアルが詳細にできあがっていたのである。驚くべきことに、騎士団員の多くが自白したとされている。騎士団側は、組織の上でも心理的にもまったくその備えをしておらず、逮捕させられたものたちは、フランス全土に分散していたため何の救いもなく突然逮捕され、仲間達について何も知らされず孤独な監禁状態におかれた。そして、情け容赦ない「拷問」を受けたのである仲間の他の者はすべて容疑を認めたと聞かされて、もし自白すれば赦免され、自由の身になるだろうとささやかれた―のである。こうして、身に覚えのない事柄で、栄あるテンプル騎士団は圧殺された。
 魔女裁判においてステレオタイプ化したものは、前代のテンプル騎士団事件にすでに出そろっていたのである。


Ⅲ.魔女狩りの歴史

 魔女裁判や魔女狩りは、多地方に渡りまた長期間に渡っているので、詳細を述べるととてつもない量になる。よって、その特徴的なエッセンスのみを取り出して見てみたい。
 悪魔を崇拝する宗派が存在するという信仰は11世紀に論証され、異端者、あるいはそうみなされた集団に対する、聖職者による排斥のステレオタイプが形成された。弾圧を正当化するため、迫害に抵抗する人々は―悪魔崇拝やキリストに対する呪詛、黒ミサ、儀式としての殺人、食人、乱交―をする者として描出された。ワルド派やユダヤ人、テンプル騎士団さえもこの汚いやり方で弾圧させられ、それらの弾圧で財産が王国のものとなったのである。
 事件は、フランス中部のランダルで始まった。1459年に開かれたドミニコ修道会総会で、ロビネ・ド・ブォーという隠者が妖術を使った罪に問われ、裁判にかけられ死刑に処せられた。ロビネは、死ぬ前に娼婦と画家の二人の共犯者を告白した。異端審問官の要請により、二人の神学博士と司教の判事により、その二人の審問が始まった。当時の審問の仕方は、自白をするまで容赦ない拷問を行うやり方であったので、不運な二人は自分たちが魔法使いであることを認めざるを得ず、さらに数人の共犯者を告発さぜるを得ない事となった。彼らは、全員異端審問から世俗裁判所に引き渡され火刑となった。
 最初の魔法使いは、悪魔を崇拝するとされた異端者ワルド派の人々であった。リヨンの商人ピエール・ワルドは、12世紀に福音に適った清貧を説き実践したが、ローマ教皇によって異端と宣告された。彼らは、アルプスの谷間に隠れ家を見いだした。彼らは、ありとあらゆる反キリスト的な行為を行い、自然災害や病を起こす張本人とされた(今日では妖術に対する弾圧はヨーロッパでは、1420年から1430年頃にかけて、ワルド派の人々が住みついた限られた地方で始まったと考えられている)。容疑者たちは、判事に火刑を宣告されると同時に、「自分たちは喘されていた。犯行を自白すれば、命だけはたすけてやるという約束だった」と叫び立てた。
 ところが、アラスのワルド事件は予審が進むに連れて町の上層部等の有力者までが告発されるようになって、町の社会的均衡が損なわれはじめた。裁判では、ドミニコ派の修道士の異端審問官が自分の見解を押しつけるのに成功した。しかし、公国政府は妖術があっという間に広がったのに疑問を表明し、フィリィップ善良公は訴追をやめさせた。パリの高等法院が犠牲者たちの名誉を回復させた。15世紀末に妖術の信仰が広がり、大規模な魔女狩りの法的手段が整ったが、まだこの時点では、それに対する抗議の声があり、不寛容と恐怖とを阻止するだけの効力があった。そしてこの最後の防衛戦も突破されるのである。

 中世の最後の200年は、激動の時代であった。15世紀前半には、壊滅的な人口の減少が認められる。伝染病や災害が起こるたびに、村で魔法使いとみなされた人に報復し、しばしばリンチが行われた。これらは、この時期は人々が妖術を身近なものとして感じるさせるような不安が高まっていたことを示している。
 また、魔女のイメージというものは、突然出てきたものではない。これらは、古代の伝説やローマ文学、ゲルマン神話などに表されてきたものである。10世紀のドイツのトリールの修道院長が、司教のための教会法規の解説書を書いた。ここに、その魔女たちの事が言及されている。悪魔学者は、弾圧を正当化するためこの司教法典を引き合いに出してきたため、魔女のイメージが定着することとなったのである。
 1484年12月5日、教皇インケンティウス8世は、「限りない愛情をもって要望する」の名で知られる教書を公布した。内容は「(前略)…のいたるところで、男女を問わず多くの人々が、自らの救済を忘れ、カトリックの信仰から逸脱し、男夢魔(インクブス)女夢魔(スクブス)に身をまかせてしまった。それらの人々は呪文やまじない、祓い、その他迷信的な恥ずべき行為や魔術を乱用して、人間や動物のこども、大地の収穫、ぶどうや果樹の実を弱らせ、枯らし、絶やしてしまう(後略)」と書かれ、悪魔の妖術と呪いの関係が正式に認められた。この教皇の教書によって、魔女狩りの火蓋が切って落とされた。この公布で、二人の異端審問官の権限が大幅に拡大された。
 2年後、この二人の審問官―おそらくその一人、ハイクリヒ・クレーマー―によって書かれた『魔女の槌』が書かれ、ベストセラーになった。この手引き書は異端審問官のために書かれ、妖術による犯罪の追求だけを目的としている(ちなみに、クレーマーはあらゆる種類の異端者と魔法使いの弾劾に生涯をかけた人である。もう一人のシュプレンガーは、神学部教授でドミニコ派修道院分院長となり、行政家であった。その知的・宗数的権威によって、この書物に道徳的・神学的裏付けを与える役割をはたした)。 17世紀に至るまで、この本は魔女狩りの基礎的な手引き書となった。
 魔法使いは単に異端者であるだけでなく、悪魔に従ったゆえの背教者であり、法廷は魔法使いに対して少しの同情も抱かない。魔法使いがその罪を告白した場合は、火刑を宣告される。頑固に起訴事実を否認し続けたら、法廷の態度は固くなった(しばしば判事たちは、容疑者が悪魔の助言を受けていると考えた)。疑わしい人間は追放された。・・・要は「一度疑われたら 最後」・・・逃れる術は無かったのである。
 妖術の神話は宗教裁判によって作られたかもしれないが、聖職者たちは世俗の法律家にその裁きの席を譲り、「魔女」への弾圧は極めて速やかに世俗裁判所の手で行われるようになった。16世紀以降の魔女狩りについては、宗教裁判所は何の関わりもない(魔女狩りが猛威をふるった地方ではどこでも、領主または国王の裁判所にすべての責任がある)。

 魔女狩りのきっかけは、常に個人と個人の関係の破綻であったが、その背景にある社会状況も無視できない。宗教戦争、30年戦争、フロンドの乱などの長い長い戦争。度重なる兵士の通過、毎日の危険。合間におこる飢饉やペスト、獣疫、悲惨になる経済状況等。地方の裁判所は、民衆の当面の要求をかなえるだけであった。「魔女」とされた人々は、リンチを受け、追われ、鞭打たれ、石を投げられ、棒で打たれて殺された。ある人々は、魔法使いを見分けられると自負し、村々に招かれては魔女探しの口火を切り、先々で混乱と無秩序を撒き散らした。それらの責めを負う人間は、女性に、特にもっとも年老いたもっとも貧しい者の中に求められた。それらの人々は、口伝えの経験的な(薬草等の)治療法の知識を受け継いでおり、病気を治す秘法を知っていたが、同時に呪いのかけ方にも通じているのではないかと疑われたのである。夫を亡くした女性も孤立していた(当時の神学者は、生まれつき男性より悪魔の幻覚に惑わされやすいとされる女性の弱点について、とかく問題にする傾向があった)。その他不意に起こった死、病気、事故はすべて妖術のせいとされる可能性があった。こどもを何人も死産したり、梯子の 天辺から仰向けに墜落したり、口論の最中に「悪魔にさらわれてしまえ」と言ったり、特殊な性習慣の持ち主だったり、頻繁に転居したり、これ見よがしに教会に行ったり等々ということは、すべて疑いを招く原因となった。
 しかし、魔女狩りは怒濤となって一気に襲いかかるような展開をとることはなかった。ある地域で、"共同体の人々の激しい苛立ち"と"それに迎合する狂信的な判事"が揃った時、火の手が上がり、激情が和らぐと下火になり、また時と場所を変えるのである(この気まぐれさが、「魔女狩り現象」の全体的把握を困難にしている)。

 さて、先程から裁判のことに何度か触れているが、どのような方法で進められたか述べておきたい。他の魔法使いによる告発は、たとえそれが拷問によるものであっても、証拠として採用された。法の一般的な規定に反して、(物心のつかないような)子供か両親を密告した場合でも、その密告は受け入れられた。「魔女」であることの証拠は、告発された人物を石の重りをつけて水に静めて浮くかどうかを見たり、体のあちこちの部分を剌して痛くない部分がないかどうか探したり、涙が出るかどうか試したり、そう言ったことによって証拠が固められた。審問の判事の質問にも、罠が仕掛けられていた。「魔法使いの存在を信ずるか」の質問に、「信じない」と答えれば悪魔の存在を否定することになり異端を意味した。「信じる」と答えれば、「ではどこからどうやってそれを知ったのか」と言う質問につながっていくのである。単なる尋問で自供が引き出せない時に限り、拷問という手段が採られた(拷問の方法は時と場所で違っていたが、苦痛と恐怖を与えることなら何でも実行された。特に火の拷問は効果的であったようだ)。被疑者が自白の供述をひるがえしたら、拷問が再開された。あらゆる手段で「告発者」の秘密は保証され、訴訟費用はすべて被疑者持ちであった。そして外界から遮断され、誰が告発者でどういう内容で訴えられたか知ることはできなかった。裁判官はすでに有罪を確信していて、弁護士は自白を勧める。そして、最後の拷問の試練に直面しなくてはならないのである。苛酷な法の機構は、抵抗する気力を萎えさせ、ほとんどの場合屈してしまった。疑いをかけられた者が、無罪で放免されることはめったになかったのである。
 15世紀に悪魔学の神話が生まれた時、宗教裁判所や教皇に責任があったが、16世紀にはカトリック教会はその行き過ぎに対して距離を置くようになっていた(しかし、根本的な点では主張を撤回しなかった)。医師達の中には、悪魔学を信奉する判事を相手に、先頭に立って戦う者も何人かいた。ヨハネス・ブァイヤーはその中の一人である。彼は、1563年に「悪魔の妄想、まじないと毒」についての学説を公にした。彼は「魔女の幻惑」という本で、悪魔や魔女にとりつかれた者は何らかの形の異常心理の結果であることを説いた(彼は決して熱狂的な時代の改革者ではなく、むしろしずかな理性的なキリスト者であった。したがって、魔女が荒れ狂った時代には、騒音の中に真理の声を伝えるだけで時代精神に疲れ果てて淋しく世を去った。しかし、17世紀にもなお、数人の医師が弾圧に反対し、最前線で戦った)。プロテスタントの人々もサタンの役割は否定しなかったが、魔女狩りについてはカトリック教徒の狂信の表れとみなしていた。 17世紀初頭のある裁判では、宗教裁判所の判事の一人が魔女とされた人々を有罪にするのを拒み、数百の互いに矛盾する証言を分析してみせた。
 1631年に、ドイツのイエズス会士フリードリヒ・シュペーの「裁判官への警告、または魔女裁判について」が刊行され、反響を呼んだ。1657年、教皇アレキサンデル7世は判事達に、妖術事件の罪科の決定にあたっては最大限慎重に臨むように勧告した。1671年には、ついにカプチン修道会士ジャック・ドートン神父の「魔術師と魔法使いについての学者の不信と無知の者の軽信」というフランス法曹界の精神に一大転機をもたらした、画期的な書が出版された。17世紀に法律家と社会の上層部の世論は、伝統主義から徐々に進歩的になっていった。これには、いくつかの大事件が人々の啓蒙に大きな役割を果たした-ウルスラ会女子修道院のルーダン悪魔事件、そこでの陰謀説など(詳細は省く)が議論された。1633年のルービィエの修道女の悪魔憑き事件では、「反悪魔憑き派」の陣営は強力になった。こうした事件を取り扱ううち、高等法院の司法官たちは、妖術犯を罪に問わなくなった。パリの高等法院は最もりベラルな考えを人々に広め、上告された事件はほぼ間違いなく減刑され、死刑は流刑になった。間もなく、大部分の地方の高等法院が、パリの高等法院の判例に従うようになった。 1670年に「刑法大典」が作られた。ここでは妖術について触れられていない(この沈黙は、地方の抵抗の大きさを反映している)。1682年に、ルイ14世の夫人を巻き込む毒殺事件の結果「魔術師、占い師、毒殺者についての布告」が生まれ、妖術の問題に国が介入した(毒物を使うといった物的証拠があった場合に限り訴追される、という規定が設けられた)。啓蒙思想の広がりと共に、妖術は次第に俗信や無知、架空の幻想としておとしめられるようになった。

 ちなみに魔女狩りのエピローグは、1692年、アメリカのマサチューセッツにおける時代遅れの魔女裁判とされている。魔女狩りは、封建社会という抑圧された状況で、ある目的を持つ権力が存在し、その権力が生み出したステレオタイプにより作り上げられた人間が、社会の最下層部の人を苦しめ虐殺する行為であった―と、私は個人的に解釈している。しかし多くの学者が指摘するように、「魔女」のレッテルは他のレッテル(ユダヤ人、非国民、共産主義者等々)に変化して弱い人々に貼られ、かつて魔女に仕立てたように犯罪者として社会的な恪印を押してきた。昨年の日本人のイラク人質事件でも、首相や政府側の「自己責任発言」によって、人質になった人々やその家族に大して、マスコミや国民の批難の声が一気に広がった。心理学の歴史的事実は繰り返し、現代の中にも形こそ違うがそれが様々な場面で再現されているのである。

(2005年 2月13日記載)