善きサマリア人から遥かに遠く離れた自分/クリスマスを前に

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僕が開業して事務所を構えた2ヶ所目の建物の名前が、「サマリヤマンション」でした。サマリヤ(※新共同訳ではサマリア)と言う言葉は、聖書ぐらいにしか登場しないので、このマンションはおそらくクリスチャンが建てたと推察します。



聖書には「善きサマリア人」と言う話があります。こんな話です。
イスラエルの律法の専門家が、イエスに言います。
「どんなことをしたら永遠の命を受け継げますか?」
イエスは、「律法には何て書いてある?」と言うと、彼は「力を尽くして主なる神様を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」って応えました。
するとイエスは、「あなたもそうしなさいね。」と言いました。律法学者は「そんなことは完璧にできている」「同胞に愛をもって対応している」と言う自負心があったので、「で、その隣人とは誰のことですか?」とイエスに尋ねました。そして、イエスは「善きサマリア人」の話を始めたのです。

当時は、旅と言うのはとても危険でした。道路の脇にずっと民家や店や街灯があるわけでなく、パトカーも巡回しているわけでもありませんし、もちろん電話も交番もありません。誰も通らない暗く険しい山道で、盗賊に襲われる危険も大きかったのです。
ある人が旅の途中、追いはぎにあって服をはぎ取られ、半殺しの目にあいました。 そこへ、イスラエルの神に仕える祭司が通りがかったのですが、その倒れた人を見ると、道の反対側を通り過ぎました。
次に、やはりイスラエルの神に仕える仕事をするレビ人も通りましたが、同じように見ぬ振りをして通り過ぎました。
ところが、次に来たサマリア人の対応は違いました。サマリア人って言うのは、イスラエル人から不信仰な人間として蔑まれていてとても仲が悪かったのです。そのサマリア人が、倒れた人を哀れに思い、介抱して傷口に葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに載せて宿屋まで連れて行き、お金を支払って介抱を頼み、「もっとお金がかかるようでしたら帰りに支払います」とまで言ったのです。
イエスは律法学者に「誰が追いはぎにあった人の隣人になったか?」と問います。自分は完璧だと思っていたイスラエルの律法学者は、「その人を助けた人です」と答えざるを得ませんでした。イエスは「あなたも同じようにしなさい」と言われました。

この話しを聞く度に思い出すことが、たくさんあります。
その中の一つに、冬の寒い朝のある出来事をしばしば思い出します。
以前通っていた教会での話です。その教会では、教会学校教師を18年務め、執事職を(休職期間も含め)22年間努めました。教会学校教師だったので、朝早く教会に行きました。教会のドアは朝開かれているのですが、礼拝堂の一番後ろの長椅子に1人の男性が寝ていました。
もの凄い酒臭と異臭でした。もうすぐ教会学校の子ども達も来るので、流石にこの酒臭はNGなので、会堂の外で寝てくれるよう起こしました。彼は、ドカジャンを着込みニッカボッカを履いた大柄な男性でした。すみません、表現をオブラートに包みました・・・少々年食ったヤンキーです。
「うるせえな!寝てんだよ!」とかドスの効いた声の反応をしましたが、なんとか廊下の方に移動してもらってそこで横になってもらいました。

教会学校が終ってほどなくすると礼拝が始まるのですが、今度はその男性は、教会の入口の受付机の横で寝ています。狭い教会なので、入口受付脇に横たわられていては、教会員がみな怖がって入って来られません。
僕は当時執事でもあったので「どうしたものか・・・」かと、思案にくれました。牧師先生は、教会学校が終るといつものように牧師館に戻ってしまいました。教会学校の校長先生や長老は、強面のヤンキー対応をどうしていいか分からない状態で近寄りません。たった一人の年輩の女性執事に対応していただくことは論外なので、ある程度はヤンキー免疫があり、当時は若かった男性の執事である僕が対応する決意を短時間で固めました。
取り敢えず、受付や礼拝中でみんなに迷惑がかからない「祈祷会室」に移動してもらって、そこで寝てもらうことにしました。
「申し訳ございませんが、ここでは迷惑になるので、あちらにご移動願います」と言って起こしたところ、「てめえ、さっきからゴチャゴチャうるせえんだよ!」と怒鳴って、その後、ここでは書けない罵詈雑言の嵐を僕に浴びせてフラフラと立ち上がり、結局、教会から出て行きました。その後、近所のコインランドリーの室内に移動して休んだようです。

未だに、あの時僕はどう対応すべきだったのか、何が正解だったのかが分かりません。他人が、離れた場所で後から「それは愛がないやり方だろ」とか逆に「さっさと警察に通報すべき」とか「ああすべきだろ」「こうすべきだろ」と言う事はたやすいです。しかし、その時、その場にいて、実際にどう対応するかを問われた時、自分に何ができるのかはその状況になってみないと分かりません。心で決めていたことと、違う事をしてしまうかもしれません。イエス・キリストの言葉が僕に突き刺さります。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
しかし、本当に心から他人を愛することは人間にはできないのです。自分を愛してくれる人を愛することは、できるかもしれません。でも、敵だったら?自分の陰口を言う人なら?自分に罵詈雑言を浴びせる迷惑な人なら?どう?分かっていても、難しいのです。
その事を神様はご存知です。神を愛すること。同じように人を愛すること、それができないのです。神と人の間に断絶があるように、人と人の間にも断絶があるのです。私たちは、そう言う罪の中にいるのです。その私たちのために、神はその独り子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
イエスは神の子でありながら、この地上において人間のリアルな生活を全部経験され、私たちの苦しみを知っています。
イエスは罪を犯していないのに、裁判でも総督に「この男には何の罪も見いだせない」と言われたにも関わらず、総督はイエスを引き渡し、ローマで最も残忍だった重罰刑に処せられます。鞭を打たれて、十字架に掛けられて、十字架上で死にました。私たちの身代わりとなって、私たちの罪を赦すためです。それほどまでに、神は私たちを愛されたのです。これが神の愛です。
クリスマスは、このイエス・キリストの降誕をお祝いする日です。メリークリスマス。

(2020年12月21日記載)


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